スペインとポルトガルの海洋事業における激しい争いはヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見によって莫大な利益をあげることに成功したポルトガルが経済的な実益において一歩リードした形になり、スペインは焦ります。

コロンブスの西廻りによるアジア到達(実際はアジアではなく新大陸)以後、どれだけ探索しても黄金の国ジパングも大ハーン国も香辛諸島も見つかりません。

当時の常識ではアメリカ東海岸はアジアの東端に位置する半島であり、その半島を超えた西側にシヌス・マグヌスという大きな湾があって、その湾内にジパングも香辛諸島もあるので、アメリカ東海岸に拠点を構える事に成功したスペインは一刻も早く西側に抜ける海峡を発見したかったのです。

1513年バスコ・ニュヌス・デ・バルボアがシヌスマグヌスらしき海(実は太平洋)を陸路を通って発見しますが、大西洋とその海との海峡は未だ発見できていませんでした。

その後も様々なスペイン入植者がアメリカ大陸に押し寄せますが、現地の人達との争いや厳しい自然環境によってなかなか思うような成果があげられません。

そしてスペインの入植者達は「海峡の発見」「アジアへの到達」と言う目的以外に「植民と征服」という恐ろしい行為にひた走ることになってしまいます。

コンキスタドールとはスペイン語で「征服者」を意味しますが、歴史上では主にスペインによるアメリカ大陸の探検者・征服者をさします。

彼らは黄金を求めてアメリカ大陸を探索し、現地の文化や文明を破壊するのみならず先住の人々から財産を略奪すると同時に人々を虐殺しました。

自分達が金銀財宝を手に入れるためには手段を選ばなかったのです。

史上有名なコンキスタドールとしては1521年にアステカ王国を征服したフェルナンド・コルテスや1533年にインカ帝国を滅亡させたフランシスコ・ピサロが挙げられます。

 

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コルテス軍のテノチティトラン攻略

コンキスタドールたちが少数で征服に成功したのはヨーロッパの科学技術による武器の差があったことと、アフリカの奴隷狩りのときも見られる、先住民同士の部族対立を巧みに利用したことによります。

また、コルテスの場合は現地の迷信による敵の戦意喪失もありました。

こうしたコンキスタドールの行為を告発した人もいましたが、逆に世間(スペインの)からは非難されました。

例えばバルトロメ・デ・ラス・カサスなどは新大陸でのスペイン支配の不当性を訴えつづけ「インディアス史」「インディアス文明誌」「インディアスの破壊についての簡潔な報告」などの著書で有名ですが、これはヨーロッパの多くの国々で出版されました。

しかしそれは諸国によるスペイン批判の道具として利用された側面が強く、ここに書かれているスペインのインディアスにおける残虐な行為だけを取り上げて、全てのスペイン人を否定することに繋がりかねない危険な書物でもありました。

そのためスペイン国内ではラス・カサスは国の誇りを失墜させた裏切り者とみなされるようになったのです。

コンキスタドールの活動は表向きスペイン王室の認可が必要でしたが、経済的にはなにも援助はなく、部隊もスペイン正規軍ではなく数百人の武装した私兵部隊でした。

そのため探索・研究などが目的ではなく「征服し略奪」することが彼らの直接的な目的だったことがアメリカ先住民達にとって悲劇でした。

例えばミシシッピー川を発見(当然白人として)したとされるエルナンド・デ・ソトの場合「ミシシッピー川の発見」という歴史的栄誉には全く興味を示さず、せっかく発見した大河を単なる大きな障害物と考えていたようです。

そんな栄誉よりも「略奪」優先だったのです。

このエルナンド・デ・ソトは、ピサロのインカ帝国征服軍に参加したことで莫大な富を得て、それを元手に私兵を再編成し、今度は北アメリカの植民に乗り出し、その結果数万人を超える先住民が虐殺されることになってしまいます。

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デ・ソトのインディオ虐殺

デ・ソトの場合も他のコンキスタドールと同じように略奪に手段は選びませんでした。

部族の皆殺しなど当たり前で、自らのことを「不滅の太陽神」と吹聴するほど好き勝手しほうだいだったようです。

このようにコンキスタドールの多くは残虐な海賊にも匹敵するような所業で新大陸を蹂躙して行ったのです。