現代ではどこのレストランでも当たり前のようにテーブルに置かれ無料で使える「コショウ」が11世紀の初めごろには一粒単位で取引がなされるほど高価で、それは「銀」と同等の価値を持っていました。

またその価格の安定は絶対だったために貴金属と同様にコショウで価格の算定がされ、不動産の取引をコショウで行う所もあったほどです。

当時のヨーロッパでは草が枯れて放牧が出来ない冬期には家畜の大半を殺して肉を塩漬けにしていました。

その肉の臭気は相当なものだったのですが香辛料があれはその臭気を誤魔化すのに都合が良かったのです。

また香辛料の辛みは鮮度の落ちた肉の味をうやむやにする事も出来たので、ヨーロッパの人々にとってはまさしく「魔法の粉」でした。

ところがこの「魔法の粉」はアジアから低価格で購入したイスラムの商人達によって法外な仲介料が課せられ、ヨーロッパで売り捌かれます。

前述のとおり低価格の香辛料がヨーロッパで売られる頃にはきわめて高価な商品に化けてしまいました。

「もしインドと直接取引が出来てそれをヨーロッパで売り捌いたら・・・」

アフリカ最南端の喜望峰を発見し、アジアへの道筋に光が見え始めたポルトガル政府が、今度はインドまでの航路開拓に本気になるのは当然だったのです。

しかしポルトガル国内ではアルフォンソ王子の落馬死やジョアン2世の健康状態の悪化など様々な問題が持ち上がり、なかなか計画が前に進みません。

そうこうしているうちに隣国のスペインではコロンブスの西廻りによるアジア到達と言う快挙を成し遂げ凱旋するという出来事がありました(実はアジアには到達していないのだが、そう思われていた)

1495年10月ジョアン2世が亡くなるとマヌエル1世が即位しました。

マヌエル1世はエンリケから変わらず継承されてきたポルトガルの航海事業の更なる発展に燃え、即位2ヶ月後にはインドへの船隊派遣事業案を議会に提出します。

 

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ヴァスコ・ダ・ガマ(1460ー1524年)

ポルトガル議会では慎重論も多く、仮に成功してもポルトガルがイスラムの香辛料市場に割って入ることになり、ヘタしたらイスラムと全面戦争となる可能性もあるからです。

しかし議会の大多数は成功した際の利益の大きさの魅力は捨てられず、インド派遣が正式に決定されました。

船の建造がはじまり、司令官には30歳代のヴァスコ・ダ・ガマが任命されました。

<ヴァスコ・ダ・ガマ出航>

1497年7月8日ガマを司令官とするインド派遣船団がリスボンを出航しました。

ガマはアフリカ西海岸を陸伝いに進んだわけではなく、アフリカ北西のヴェルデ岬以降は大きく西に膨らむ形の航路をとりました。

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ヴァスコ・ダ・ガマの第一回航海ルートマップ

記録ではヴェルデ岬を出発したのが8月3日、次に陸地を見たのはアフリカ南端のセントヘレナ湾の11月4日ですから約3カ月陸を見ない航海をした事になります。

これはコロンブスがスペインからサンサルバドル島に到達した2カ月より遥かに長い時間陸を見ない航海を続けた事になりますが、なぜそのようなルートを行ったのか?定かではありません。

赤道付近の無風地帯を避けたという説や、あわよくば未知の島を発見しようとしたなど様々な憶測がなされていますが、はっきりした理由は航海記録にも無くわかっていません。

喜望峰到達以降はアフリカの東海岸を陸伝いに北上しますが、ここでひとつ認識しておかなければならない事があります。

当時の東アフリカ各都市はイスラムの商人やアジアの商人達が活発に交易しており、古くから異文化交流を続けてきた事もあって、地中海文化しか知らないヨーロッパに比べて遥かに都会的な発展を遂げていたのです。

つまり東アフリカ各都市を訪問したガマの一行はけっして悠然と乗り込んで行けたわけではなく、行く先々で先進の都市文化に触れ、カルチャーショックを受け続けるような旅だった事が予想されます。

ガマにとっても驚きの連続だったかもしれませんが、訪問を受けた現地の都市でもヨーロッパ人を好奇の目で見ました。

また、現代の船旅のように港から港を平和裏に巡航したわけではなく、各地でトラブルに巻き込まれながらの命がけの航海でした。

現地の人達から見ればガマの一行は「何を考えているかわからない」異形の集団です。

いきなり来訪した異形の集団に対して恐怖を感じたとしても仕方ありません。

停泊中に突然襲ってくる事も珍しくありませんでした。

逆にガマの側が現地の女性を人質にとって水先案内人をさせるなど海賊まがいの非道な行為もしました。

このように、一つの航路を開拓するという事は、ただその地を訪れればそれで良いという訳ではなく、場合によっては武力を行使しての制圧さえも視野に入れておかなくては成し得ない命がけの事業だったのです。

様々な苦難を乗り越えヴァスコ・ダ・ガマはインドのカレクト王国(現代のカリカット)に到着しました。

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ガマの船サン・ガブリエル号

ガマはここでもトラブルに見舞われます。

ガマが国王に献上する為に用意した品は 帯12枚・緋色の頭巾4枚・帽子6個・鉢が6個・珊瑚の玉4つ・蜂蜜2樽・砂糖1箱・油2樽だったのですが、これは正直なところ国王に献上するには余りにも貧相と言わざるを得ません。

献上品を検分したカレクトの役人は唖然とし、騒ぎを聞きつけた商人たちでさえ笑い転げてしまうほどでした。

この当時のカレクトの港は年間で600隻を超える船が出入りするインド洋交易の大拠点であり、この程度の品々は、国王でなく一般庶民ですら日常品にしか見えないものだったのです。

ガマの航海の目的のひとつに「アジアの権力者と友好を結ぶ」という事もあったので、ガマが国王への献上品に手を抜いたとは考えづらく、これが当時のヨーロッパとアジアの裕福な国との「現実的な経済力の差」だったのかもしれません。

この翌日、カレクト国王とガマは対面しますが、国王は終始不機嫌だったと言います。

その後もカレクト国滞在中、仲間の船員がカレクト側に監禁された事に激怒し船を訪れたカレクト市民を人質に獲って対抗するなど、様々なトラブルに遭遇し続けます。

当時の慣習では「交易のため停泊中の船には乗組員は残さない」ものでしたが、ガマは乗組員を常時船に残して迅速に出航できる準備をしていました。

この事もあってカレクト側は「ガマはポルトガル国の使者などではなく実は海賊なのでは?」と疑っていたし、ガマの方もけっして心を許していません。

ポルトガルとカレクト王国はお互いに疑念を抱きながら、友好と言うには程遠い関係しか築けませんでした。

しかし、同じインドでもカレクト王国を良く思っていない周辺の中小国も存在します。

ガマの航海以降もポルトガルは有能な司令官をインドに派遣し続け、カレクトの敵でもあった「コチン王国」と友好を結ぶことに成功し、ここを拠点にインド・東南アジアで確固たる地位を築いていくことになります。

1505年セイロン島制圧

1510年インドのゴア制圧

1511年マラッカ占領

これによってポルトガルは国力において他のヨーロッパ諸国に圧倒的なアドバンテージを得ることに成功したのです。