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コロンブス

イタリア・ジェノヴァの商人コロンブスは同時代のフィレンエの哲学者トスカネリの地球球体説を信じていました。

彼は「大西洋をひたすら西に進めば必ずアジアに到達する」と、西廻りによるアジア航路開拓を当時の最先端海洋国家であるポルトガルに提案し、援助をもちかけますが、喜望峰の発見によりアフリカ経由の東回りでアジアへの航路開拓にある程度の目途がついていたポルトガルはコロンブスの提案を却下します。

当時の知識人の多くはすでに地球が球であることは知識として持ってはいましたが、それでも、その距離などは全く見当もつかないので「大西洋を西に進めば必ずアジアに到達する」というコロンブスの訴えは机上の空論にしか思えませんでした。

西に向かうのは良いが人間が航海で耐えられる距離や時間なのか?が全く解っていなかったのですから当然です。

しかしコロンブスはヨーロッパからアジアまでの距離は4000マイルであるとの仮説をたて「西廻りのアジア到達は東回りより遥かに容易である」との確信をもっていました。

その仮説の根拠になったのは前述のトスカネリ理論と大学教授であったダイ枢機卿の理論、そしてマルコポーロの東方見聞録の記述を拠り所にしたものです。

トスカネリの世界観では当時発見されていなかったアメリカ大陸のあたりに東アジア(ジパング)があるはずだと考えられており(下図)

コロンブスもこの説を支持していたのです。

(詳しくはクリストファー・コロンブス人物紹介にて)

 

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トスカネリのジパング位置予測

ポルトガルからの援助は受けられなかったコロンブスですが、運が彼に味方します。

レコンキスタが最終局面を迎えたスペイン王国のイザベラ女王援助を承諾してくれたのです。

コロンブスはサンタマリア号・ニーニャ号・ピンタ号の3隻で一路アジアを目指しました。

苦難の末の航海でコロンブスはとうとう陸地を発見しますが、彼はそこがアジアの一部地域である事を疑わず、スペインに帰国後西廻りでのアジア到達成功と報告します。

 

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コロンブスの航路

結果的にその報告は間違っており、彼が到達したのはバハマ諸島の一つで、その島をサン・サルバドル島(聖なる救世主)と命名しますが、コロンブスはジパングの西に浮かぶ島だと考えます。

ここを足がかりに周辺地域を探索し、アメリカ大陸にも到達しますが、コロンブスはそこが巨大な未知の大陸であるとは考えず、あくまでもアジアの一地域だと考えました。

その後も様々な調査航海が各国によって行われますが、欧州の探検家のほとんどはコロンブスの主張する「アジア到達」を疑ってはおらず「そこは東アジアである」と考えていましたが、イタリアの探険家アメリゴ・ベスプッチだけはアジアとは別の大陸、すなわち(ヨーロッパから見て)新大陸であると主張します。

 

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アメリゴ像(イタリア・フィレンツェのウフィッツィ美術館)

様々な調査を重ねた結果ベスプッチの主張の正しさが証明されました。

そして「ヨーロッパとアジアを隔てる大海の途中に大きな陸地が横たわっている」とヨーロッパの人達に認識され、これを新大陸であると主張したアメリゴ・ベスプッチの名前をとって「アメリカ大陸」と名付けられました。