1460年11月、エンリケ航海王子はこの世を去りました。

エンリケの事業は大航海時代の扉をこじ開けた偉大な事業だったのですが、彼自身は純粋な探検航海に徹していた事もあり、はっきり言って商業的には成功とは言い難く、エンリケ自身も莫大な負債を残したまま亡くなっています。

そのエンリケが亡くなったことでポルトガルは海洋事業を継続するか?しないか?で迷いますが、アフリカ海岸線の交易事業に大きな経済的可能性を見いだし、エンリケの事業は継承される事になりました。

エンリケの意思を強固に継いだジョアン2世バーソロミュー・ディアスに海路からアフリカの海岸線探索と、エチオピアのプレスタージョンの捜索を命じました。

 

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バーソロミュー・ディアス

1487年8月ディアスは3隻の船でリスボンを出発しました。

アフリカを海岸線に沿って南下したディアスの航海は極めて順調でした。

クロス岬までは過去の航海者の記録があり様子は解っていましたが、その先の未知の海域も順調に航海でき、一気にワルヴィス湾に到達します。

この湾に1隻の帆船を「補給船」として停泊させ、自身はさらに南下しオレンジ河の河口に到達しました。

オレンジ河は現在のナミビアと南アフリカの国境となっている大河ですから、実はこの時点でディアスはアフリカ最南端の間近まで到達していた事になりますが、そんな事は解りませんのでディアスはここにポルトガルの航海の軌跡を示す石柱のモニュメントを建てます。

そしてさらに南下し航海を続けますが、ここで嵐に遭遇してしまいます。

知らない海域での嵐ほど恐ろしいものはありません。航海において最も大切な事は

「自分が今どこにいるのか?」を正確に知る事ですが、その情報が極めて曖昧になってしまうのです。

船はどんどん南に流されてしまい約2週間南下を続ける事になってしまいました。

陸地は見えません・・・・

しかしポルトガルの船乗りたちはアフリカ沿岸で嵐に遭遇した場合の対処法を知っていました。

「東に進路をとればアフリカ大陸の海岸があるはず」

エンリケの挑戦以後、ポルトガルの船乗りたちはこうする事で危険な大洋での漂流を回避して来たのです。

ところが、いつまでたっても陸地が見えて来ません・・・・

ディアス達は知らない海での漂流という最悪の事態に恐怖します。

仮に嵐によって流された方角が南だと言うのが誤りだったとしても、仮にどの方角に流されたとしても理論上は「東」に進路をとりさえすれば間違いなくアフリカの海岸に出るはずです。

それが一向に陸地が見えてこないと言う事は・・・・?

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ディアスの辿った航路

「もしかしたらアフリカの最南端を越えたのでは?」

という仮説が成り立ちます。

ディアスは進路を北にとるよう命じました。

すると予想通り陸地が見えてきたのです。

しかもアフリカ大陸の南端は東西に長く延びているわけではなく、先端から北に向かって陸地が伸びているのが見えました。

と言う事はそのままアフリカ東海岸を進めばインド洋に出られる可能性が高いと考え、ディアス自身はアフリカ東海岸を北上させようとしますが、船員達が猛反対します。

ディアスはこのときインドまでの航路開拓に関してある程度の自信はあったはずです。

しかし、疲弊しきった乗組員達のことを考えると無理強いは出来ません。

ディアスは仕方なくアフリカ南海岸を西に進むと往路では嵐で流されたために見逃したと思われる岬が見えて来ました。

その岬こそアフリカ最南端に違いなく、ディアスはその岬を「嵐の岬」と名付けました。

1488年12月ディアスは帰国し、ジョアン2世にこの航海の報告をします。

ジョアン2世はディアスの航海の成果に大満足します。

そしてディアスが嵐に遭遇した為に名付けた「嵐の岬」と言う名を

「この岬はポルトガルの希望だ」

として「喜望峰」と改名しました。

ポルトガルは喜望峰に到達した事でプレスタージョンの消息を掴むという目的と共に、インドまでの海洋航路開拓にも大きな望みが出て来たのです。