<大航海時代を生みだす下地>

まずはヨーロッパの人々が危険を冒してまで海に乗り出す事になった経緯を考えたいと思います。

現代でこそ最先端の文明を有する先進国が集まる地域ですが、大航海時代前までのヨーロッパは決して裕福な地域ではありませんでした。

ヨーロッパは日本の北海道よりも緯度が北にあり、肥沃な土地とは言えません。

そのくせ大きな川がゆったり流れる広大な平野があって、しかも大陸の端である為に人が集まりやすい条件だけはそろっていました。

肥沃ではない土地に人が集まるわけですから結果は見えており、人々は食糧難と常に隣り合わせの危険な状態での厳しい生活を強いられる事となります。

当然、他の肥沃な地域との交易は不可欠なのですが、当時のヨーロッパは航海において後進地域でした。

地中海交易はイスラム圏の国々にガッチリ押さえられ、かと言って大西洋の向こうは何も無いと思われてましたし、陸伝いにアフリカ方面に南下するにしても、遠くまでは怖くて行けません。

寒い地域で育った彼らにとって、南下するほど気温が上昇する事は大変な恐怖でした。

南に行くほど際限なく気温が上昇し、最後は煮えたぎる灼熱地獄が待っている、と本気で信じられていました。

一方、遠くアジアから陸路(シルクロード)を通って送られてくる豊富で魅力的な物資は、必ずイスラム圏を経由するわけですが、その時点で数十倍に値段がつり上げられてしまいます。

 

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シルクロード

例えば「胡椒(こしょう)」ですが、食品の保存技術が拙い当時のヨーロッパの人々にとって胡椒は「腐りかけの肉でも臭いを消してくれる魔法の粉」として高値で取引されました。

ところがアジアではタダ同然の「胡椒」がヨーロッパに到着する前にイスラム圏で利益をドカン!と上乗せされ、一粒単位で売られるほど高価な宝に変わってしまいます。

まるで閉じ込められたかのような状況に置かれてしまった欧州の人々の閉塞感は長い時間をかけて徐々に高まって行き、のちに大きなパワーとなって爆発します。

ヨーロッパの人たちはただ探究心とか冒険心から海に繰り出したのではなく、生きる為の一つの方法として海に可能性を見いだしたのだと言う事を知っておかなければなりません。

<巨大なイスラムの壁>

大航海時代にヨーロッパの人たちが危険を顧みず海に繰り出した理由としてイスラム教の存在があった事は前述のとおりですが、イスラムと戦ってでも陸路を行く!という選択肢は無かったのでしょうか?

もちろんチャレンジした歴史もありました・・・・

イスラム教は西暦610年、マホメットが神の啓示を受けたことにはじまり、その教えは周辺地域に瞬く間に広がって行きます。

イスラム教は「アッラーが唯一神」としていますが、対するキリスト教も「イエスを絶対神」とする宗教ですから、お互いに相容れる訳がありません。

また偶像崇拝を否定しているイスラム教に対して、マリア像や十字架などを崇拝するキリスト教ですから、この事一つとっても両者の主義主張が衝突するのは必然だったのです。

イスラム諸国と隣り合わせのキリスト教の国々では各地で紛争が続いていましたが、セルジューク・トルコ帝国との戦いに大苦戦をしていたビザンティン帝国(イタリアの南東、黒海の南西あたりの国)皇帝のアレクシオス1世が1095年ローマ教皇を介して西ヨーロッパの君主や諸侯に援軍を要請したことで西ヨーロッパ全体が大きく動き始めます。

ローマ教皇ウルバヌス2世はただちにフランスのクレルモンに西ヨーロッパの有力者を召集し檄を飛ばしました。

(簡略ご紹介)

「東方で我々と同じキリスト教を信じる人たちが苦しんでいる。それは異教徒が聖地を占領しキリスト教徒を迫害しているからに他ならない。

キリスト教徒同士が争っている場合では無い。ただちに不毛な戦いを止め、神の為の正義の戦いにつくべきだ。この呼びかけに応じる者には現世・来世を問わず素晴らしい報酬が約束されている。

ためらう事は無い。何故ならこの戦いの指導者は神自身なのだから。」

教皇のこの訴えは西ヨーロッパ諸国の人々に感動と熱狂をもって迎えられます。

そして遠征軍が組織されますが、これが史上有名な十字軍です。

1096年、第一回目の遠征が始まりますが、十字軍の遠征はこれを含め約180年の間に計8回行われました。

 

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1142年のヨーロッパの状勢

しかし成果があったのは第一回目だけで、それ以降は軍費を消耗しただけで際立った成果の無い無駄な戦いと言わざるを得ません。

十字軍失敗の原因は色々考えられますが、ヨーロッパ諸国の利害関係が複雑に絡み合い一枚岩とはいかなかった事が最も大きな要因だと思われます。

ともあれ、十字軍は強大なイスラム勢力をを駆逐するには至りませんでした。

以後ヨーロッパは商業においても文化においてもアジアとの交流はイスラムを介すことで満足するしかない状況が続く事になります。

<モンゴルの脅威>

13世紀の中頃、それまでの流れを大きく変える事態が起きました。

イスラム勢力より遥か東のモンゴル帝国軍が大陸を統一するかような勢いで迫って来たのです。

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モンゴル帝国の版図の変遷

モンゴル軍に東から攻められる形となったイスラム勢力は、モンゴル軍の強さに驚くと同時に、その戦い方に度肝を抜かれます。

モンゴル軍は常に一人数頭の替え馬を伴って出動します。

馬での移動ですから行軍速度は異常に速く、一説には1日に350㎞移動したとも言われています。

そのため、情報収集能力も高く、敵の弱点と見るやいきなり最大兵力を1点に集中させる事も可能でした。

役に立たなくなった馬は食料にして、革は鎧の修理にも使え、骨は矢じりにするなど、無駄なく使いきりました。

イスラムにしろヨーロッパにしろ戦争は一種の外交的な側面を持っており、武力行使と同時に交渉も行って交渉が成立すれば当然停戦もあり得ます。

自らに利益があると判断すれば戦争などする必要は無いのです。

ところがモンゴル軍は全く違います。彼らは「利益」を求めて戦うのではなく、純粋な征服欲で動いているので損得による停戦なんてありえません。

騎馬軍団で一気に襲って来て「降伏か?死か?」を迫り、抵抗後の降伏は認めないので、ひとたび抵抗したら皆殺しです。

襲った土地を制圧すると自分達がその地に滞在する間の奴隷として一定数は生かしてこき使いますが、次の地に移動するときには全員殺してから移動しました。

ヨーロッパ勢も必死で応戦しますが、ポーランド王国、神聖ローマ帝国、そして名高いテンプル騎士団やドイツ騎士団、聖ヨハネ騎士団などのヨーロッパ連合軍はモンゴル帝国軍に手も足も出ませんでした。

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ワールシュタットの戦い

モンゴル軍の東欧侵攻戦は後年ワールシュタット(ドイツ語で「死体の山」)の戦いとして恐れられヨーロッパ諸国に語り継がれていきます。

凄まじい勢いのモンゴル帝国軍はわずか半世紀の間でユーラシア大陸のほぼ3分の1に当たる土地を征服します。

神聖ローマ帝国への侵攻も時間の問題と思われたとき、モンゴルでは指導者の死去や国内の分裂など綻びが出始め、結局引き上げていきました。

ヨーロッパの人たちは安堵すると同時に再度の侵攻だけは是が非でも止めたいのですが、戦っても勝てる見込みが無いので同盟の可能性を模索するのが賢明であると考えます。

モンゴル帝国が広大な領土を有する事によって中国からヨーロッパまでが帝国の名のもとに交通網の整備や治安の維持がはかられ大陸の移動はむしろ以前より安全になりました。

そんな状況下で一人の少年がモンゴル帝国に向けて旅に出ます

後に東方見聞録を著す事になるマルコ・ポーロです。