前章で紹介したコンキスタドール(征服者)達によってスペインは大きな利益を手にしました。

しかしそれはスペインにとって本来の目的ではなく、その先の「シヌスマグヌス到達」にもっと莫大な利益確保を目論んでいたのです。

その為にはなによりも大西洋から太平洋(当時はシヌスマグヌスと思われていた)に抜ける海峡を見つけなくてはなりませんが、数多くの探検家たちが挑戦するもののなかなか海峡発見には至りません。

そんななかポルトガル人「フェルディナンド・マゼラン」がスペイン政府の後ろ盾を得て南アメリカ大陸の南端に海峡を発見しました(後のマゼラン海峡)

マゼランは海峡発見にとどまらず、そのまま太平洋を横断し世界一周を成し遂げます。

歴史の大きな流れから言えば、球体である地球を一周することはいずれ誰かが成し遂げるであろう事柄だったかもしれません。

しかし最初に世界一周を果たしたマゼラン艦隊の足取りをたどってみると大きな偶然と幸運が重なって成し遂げられた偉業であった事がわかります。

詳しくは当サイトのフェルディナンド・マゼランをご覧ください。

マルコポーロの東方見聞録で一躍欧州中に知れ渡った「黄金の国ジパング」ですが、実はそれ以前(古代インドの伝説)から「東の海に浮かぶ金銀島」の伝説はありました。

紀元一世紀頃のローマ帝国の地理書にも「インダス川の東」と記載されていたのですが、もちろん根拠は何もありません。

そういった伝説の下地もあったので東方見聞録のジパング伝説は欧州人達に比較的たやすく受け入れられたのでしょう。

マゼランの世界周航によって太平洋の探索がヨーロッパ人にとって手の届く事業となった事で「金銀島」は単なる夢物語ではなく具体的な目標となりました。

16世紀になるとヨーロッパ人達には「ジパング=日本列島」と地理的には認識されましたが、ポルトガル人が実際に日本に来訪したとき、伝説で語られるほどの金の産出は無い事を知ります。

しかし銀の産出量は他地域の常識から鑑みて桁違いだったので日本列島は「銀島」であり、付近に「金島」が存在すると考えられたのです。

当時の日本がどのくらい銀を産出していたか?

あくまでも推定ですが当時の世界全体での銀産出量は新大陸での金銀産出ラッシュが始まっていた事もあって60万キロという膨大な量だった事が記録に残っていますが、そのうちの実に1/3にあたる20万キロは日本産だったのです。

ユーラシア大陸の広さ、アメリカ新大陸の広さを知る欧州の人達から見れば、日本という小さな島国からこれだけの銀が取れる事実は常識を遥かに超える事であり、日本列島周辺に他にも金銀が豊富に取れる島の存在を信じたとしても無理もないことかもしれません。

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↑1592年にポルトガルのイエズス会宣教師テイセラが製作した「ティセラ日本図」

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↑Hivami(石見)の上にArgenti fodinae(銀鉱山)と記載されている

日本に最初にキリスト教を布教したとされるフランシスコ・ザビエルは1549年に来日した際、友人あての手紙で「スペイン人達はこの島をプラタレアス(銀の島)と呼んでいる」と書き送っていることからも、すでにヨーロッパでは日本が優秀な銀産出国である事は周知の事実だったようです。

そして、欧州諸国はいよいよ「金島」の探索に本格的に着手する事となり多くの探検家たちが日本列島近郊まで探索の手を伸ばしてきました。

1587年にスペインのペドロ・デ・ウナムーノが日本近海で最初に金銀島の探索を行った探検家と言われていますが、もちろん島は発見できませんでした。

しかし欧州人達は金銀島の実在を疑わずその後も専門家たちによって様々な見解が語られ欧州各国の指導者たちも積極的に調査に乗り出す構えを見せます。

1612年スペインは大胆な作戦に出ました。

それまでの探検家のように日本列島周辺をコソコソ調査するのではなく幕府の許可を得て堂々と調査しようという作戦です。

1609年にスペイン人ドン・ロドリゴ・ヒベロが暴風雨に巻き込まれ日本に漂着するという事故があり、その時幕府はロドリゴを庇護してメキシコに無事帰還させるという出来事がありましたが、この事件を利用しました。

スペインは返礼使節という名目でセバスチャン・ビスカイノを日本に派遣しますが、実はこのビスカイノという人物はバリバリの探検家で、返礼という形をとりながらも最大の目的は日本列島の測量と金銀島の探索だったのです。

ビスカイノは「メキシコ副王の使節一行」という肩書で日本へ上陸し 「フィリピン・メキシコ間の交易船が遭難した際の避難する港の位置を知りたい」 という理由で徳川幕府から日本測量の許可を得て堂々と日本の測量を始めました。

 

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セバスチャン・ビスカイノ

あるとき暴風雨に遭遇して船が破損した際に幕府に庇護を求めましたが幕府がこれを拒絶するという出来事がありました。

オランダ・ポルトガル人が徳川幕府に「スペインが日本の測量をしているのは将来の日本侵略に備えての事」という諫言をしたのです。

船は壊れ、徳川幕府からは見放され、絶体絶命のビスカイノを救ったのは奥州の大大名「伊達政宗」でした。

この事がある以前から、もともとビスカイノは伊達政宗の事を非常に高く評価しており「日本国内で最も力を持つ家の一つであり皇帝に次ぐ人物である」と記録に残しています。

もちろん伊達政宗もボランティアで救いの手を伸ばしたわけではなく政宗なりの政治的意図があっての事で、一説には仙台とメキシコの貿易航路を開拓すると同時にスペインと友好関係を築き、いずれはスペイン艦隊の援軍を得て徳川幕府を倒そうと計画していたとも言われています。

仙台とメキシコの航路は太平洋上のいくつかの海流を乗り継ぐ事で比較的簡単にメキシコに到達してしまうそうです。 (黒潮→北太平洋海流→カリフォルニア海流→米大陸沿岸海流)

しかし、当然の事ですが船を操作する能力に加え海流を見極める知識をもつ日本人などいません。

そこで政宗は援助を行う代償としてビスカイノにメキシコまでの水先案内を要請したのです。

船が破損し窮地に追い込まれたビスカイノに選択の余地は無く1613年10月28日、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使とした遣欧使節団が現在の石巻を出航しました。

これが日本史上有名な慶長遣欧使節団です。

 

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支倉常長の慶長遣欧使節団の航海

金銀島の探索を目的に来日したセバスチャン・ビスカイノの計画はこうして志半ばに頓挫しましたが、その後も欧州各国は東アジアに存在するとされた金銀島探索への執念を捨て切れず多数の探検家がこの日本周辺を探索しました。

そんな中にはキャプテン・クックのような超メジャーな太平洋探検家も含まれており欧州諸国による金銀島探索は19世紀まで続くことになります。