古代の日本は現代よりはるかに湿地帯や湖沼が多く、水上輸送は最も効率のよい物流手段だった。
そのため、それらの積荷を狙う小規模な海賊行為は各地であったものと思われるが、ほとんどの場合地域の有力者によって対処(武力制圧)されたため、海賊たちが記録としてあらわれるのは平安時代になってからの事である。


<日本の元祖海賊>


平安時代になると地方から都へ水上輸送される官物を狙った海賊が現れるようになり各地域では対応に苦慮している。

特に大動脈であった瀬戸内海では朝廷から海賊討伐令がくだる事も少なくなかった。

平安時代の後期になると小規模な掠奪を繰り返すだけだった海賊たちが次第に集団化し、なかには大きな力をもつリーダーが現れるようになる。

その象徴的な人物の一人が藤原純友だ。

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藤原純友


摂政家として栄えた藤原北家の出身だった藤原純友は早くに父を失い都での出世を諦めざるを得なかった。
伊予の国(現在の愛媛県)で海賊を取り締まる地方官として赴任した純友は任期を終えた後も都に戻らずそのまま海賊になってしまう。

純友は伊予の国内にある日振島を根城に抜群の統率力を発揮し当時の公家社会に不満を持つ瀬戸内海沿岸の民衆を集め、1,000隻を超える大海賊団を組織し周辺海域をあらし、やがて瀬戸内海全域にその勢力を伸ばした。

純友の海賊活動に脅威を感じた朝廷は様々な対策を講じ瀬戸内海の海賊撲滅をはかった。
ヨーロッパの海賊撲滅作戦でもよくあった「恩赦」もそのひとつ。
投降したものは一切罪を問わないだけでなく、所領や金銭などの報酬まで用意したのだ。

一説にはこれによって2,000人を超える海賊が投降したとも言われている。

だが純友はそう簡単にはいかなかった。
それどころか関東で起こった平将門による反乱の動きが活発になった939(天慶2)年になると、純友の活動範囲は紀伊や摂津から北九州、土佐にまで及び、讃岐など各地の国衙(国府の政庁)を焼き討ちするという大胆な海賊行為に出るほど活発になって来る。

それはまるで東国の平将門と呼応するかのようで、西暦940年に淡路国(現淡路島)讃岐国(現香川県)に攻め上り、ついには九州の太宰府まで襲撃するのである。

よく小説等で語られる平将門と藤原純友の共謀説はどうやら後時代の創作のようだが、同時期に陸と海で大規模な反乱が起こってしまう事自体に貴族社会の限界が見てとれまいか。


朝廷もさすがにこれらを放置することはできず、伊予水軍を統べる海賊「橘遠保」に追討令を出した。

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橘遠保

「海賊の追討に海賊を派遣?」
と思われるかもしれないが当時の日本では「海賊=水軍」であり、完全に「海賊」として独立した組織は多くなく、ほとんどの海賊は権力者の支配下におかれた水軍でもあったのだ。

純友は朝廷軍と一カ月近くに渡り激闘を繰り広げたが941年ついに博多湾の戦いで敗れ、伊予国に逃れるが捕らえられ獄中で死亡した。