ギャングの風貌で名を「カポネ」と言えばアメリカ禁酒法時代にシカゴを根城にしたアルフォンス・ガブリエル・カポネ(通称アル・カポネ)で間違いないと思います。

 

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アルカポネ

ギャングとして従来の事業である売春業・賭博業などを手広く手掛けると共に当時法律で禁じられていた酒の製造・販売によって莫大な利益を挙げつつ組織を近代化し拡大していった事で知られています。

若い頃のカポネは非常に家族想いで、チンピラ時代も数ドルの日銭を稼ぐとそれを家に持ち帰り全部母親に渡すような若者でした。

結婚して1918年に息子が出来ると一時はギャングの世界から足を洗いボルチモアの建設会社に勤めた事もありましたが、1920年ごろ昔のギャング仲間との付き合いを再開し、元の裏社会に戻ってしまいました。

そのとき勤め先の経営者ピーター・アイエロに退職の意思を伝えると、餞別として500ドルを貰いましたが、カポネはこの恩を忘れることなく、後年ピーター・アイエロがシカゴを訪れた際、アイエロを歓迎する宴会を催しシカゴの街をパレードしました。

その頃のカポネは単なるいちギャングではなくシカゴ市長やシカゴ市警察署長を凌ぐほどの権力を持っていたのです。

カポネがシカゴ裏社会のボスに成り上がるまでには血で血を洗う凄惨な抗争を勝ち抜いていく実力と運が必要でした。

アルカポネが関与したとされる有名な事件に「聖ヴァレンタイン・デーの虐殺」があります。

 

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聖ヴァレンタイン・デーの虐殺_写真

1929年2月14日、警察官に扮装した一団がジョージ・モランのアジトがある自動車修理工場を襲ったのですが、その一団はカポネが放った刺客だったと言われています。

敵のボスであるモランはいませんでしたが、5人の幹部をはじめ、たまたまそこに居合わせた2人を含む合計7人が壁に向かって並ばされ機関銃によって背後から無数の銃弾を浴びて殺されました。

このとき警察は当時抗争を続けていたカポネを疑いましたが、カポネは事件当日マイアミ・ビーチに滞在しており、前後数日間の電話連絡の記録さえ見つからずカポネの関与を立証することは出来ませんでした。

この事件以降、事実上シカゴはカポネのものとなりましたが、この事件はアメリカ全土でマスコミに取り上げられ、その凄惨な事件現場の写真はアメリカ国民に対してあまりにも大きなインパクトを与えたため連邦政府も見過ごす事は出来なくなりカポネに対する当局のマークは厳しくなります。

カポネのニックネーム「スカ―フェイス(向う傷)」は彼が若い頃町のチンピラとのいざこざでナイフによって受けた顔の傷口に由来しますがカポネ本人はこのあだ名を嫌っていた為、本人の目の前で呼ぶ者はいませんでした。

裏社会のボスであるにもかかわらず一般大衆の支持を受ける事にはかなり執着し、貧しい人達に食事の配給をするなど積極的に慈善活動もしました。

元来の陽気な性格からマスコミにもよく取り上げられたアルカポネは様々な伝記映画や小説にも題材となる事が多く、今でもアメリカの歴史上最も有名なギャングとして語り伝えられています。