貴族であると同時に政治家であり軍人でもあり、とくに新世界(アメリカ大陸)におけるイングランド最初の植民地を築いた功績で知られるローリーですが、芸術や文化の方面でも活躍した実に多彩な人物として知られており、特に叙事詩「妖精の女王」はエリザベス朝期の最高傑作とまで讃えられています。

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ウォルターローリー

1552年頃ヘイズ・バートンで生まれたローリーは家族がプロテスタント寄りだったことでカトリックから様々な迫害を受け、幼少期には命の危険を感じて家族で身を隠すなどの経験もしており、カトリックに対しては強い憎しみを抱いていたようです。

同じプロテスタントである女王エリザベス1世に寵愛され様々な方面で才能を開花させたローリーは騎士の称号を与えられ近衛隊長に任命されました。

しかし、1582年女王の侍女であるエリザベス・スログモートンと恋に落ち女王に無断で結婚してしまった事で彼の幸運は一気に暗転します。

普段からあまりに露骨に女王の寵愛を受けていた為、ローリーを快く思わない人も多く「女王陛下の寵愛を良い事に侍女に手を出した」「女王陛下の信頼を裏切った」などと、この恋愛スキャンダルをネタに反対派から叩かれまくりました。

ローリー夫妻は刑罰を受ける事となりロンドン塔に幽閉されますが、その期間は2カ月と短く、召使いの使用も認められるという非常に軽いものでしたが、女王の怒りをかった事実はなかなか拭いされるものではなく、以前のような寵愛を受けるのは難しい状況でした。

なんとか信頼を取り戻そうと考えますが生半可な事をしようものなら女王の怒りに火を注ぐような逆効果となりかねません。

そこで思いついたのが「航海事業への進出」です。

こんな時にもし国益につながるような活躍でも出来れば必ず女王の信頼は取り戻せると考えたのです。

当時のイングランドはスペインやポルトガルに比べると海洋事業に関して後発であり、何とか追いつこうと躍起になっていました。

1、ポルトガルの喜望峰経由でのアジア到達

2、スペインのマゼラン海峡経由での太平洋周航

に続く第3のルートとして、シベリア経由の「北東航路」と北アメリカ経由の「北西航路」という、地球の北部にも航路を開拓しようとしていたのです。

ローリーにはサー・ハンフリーギルバートという異父兄の探検家がおり、彼は北西航路の可能性についてエリザベス女王に提言し探検航海の許可を得ていました。

ローリーの初航海は1578年6月ハンフリー・ギルバートに同行する事でした。

そして1584年に北米探索航海では大陸の東海岸を探索しロアノーク島を植民する企画をたて、その植民地を未婚のエリザベス女王にちなんで「バージニア」と名付けました。

これはイギリスがアメリカ大陸に植民を試みた最初とという事になりますが、この入植計画は上手くいきませんでした。

バージニアは乾燥した砂地であった為に土地は痩せており、入植する為にはしっかりした農業技術を持っている人達が必要だったのですが、最初の入植者の多くは「アメリカ探索で一攫千金」といった考えで来た連中が多く、そのような儲け話は無いという事が解ると引き上げていくようになります。

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ロンドン・ブラックウォールのローリー宅

 

1587年ローリーは再び北米ロアノーク島への入植を試みます。

この時には前回の失敗から学び、多様な入植者を連れて行きました。

しばらくして監督官として同行したジョン・ホワイトという指揮官がイギリスに物資の補給に行った際、ちょうどイギリスがスペイン無敵艦隊との決戦を前にした時期だった事もあって船を港に留めるよう命令されました。

ジョン・ホワイトがロアノーク島にやっと帰れたのは3年以上過ぎてからなのですが、そのとき入植者たちの姿は島から消えていました。

彼らが消えてしまった理由はわかっていませんが、木の幹に刻まれた「CROATOAN」という文字から推測し、先住民のクロアタン族に襲われ全滅したのではないかとされており、ここは現在では「失われた植民地」と言われています。

ロアノーク島の入植には失敗したもののローリーはその後も新世界への出資・開発に積極的に取り組み後続の植民地への道筋を開きました。

その為ローリーは英国史の授業においてはイギリスが新世界への航海に積極的な出資が行われることになった主要な原因であるとされています。

貴族であるローリーは当時のイギリス貴族の大半がそうだったように私掠船の出資者でもあり、とくに新世界(アメリカ大陸)に向かう船を積極的に支援し、新世界の情報収集は怠りませんでした。

そうした活動を通してローリーはインカ帝国に興味を持つようになり、様々な情報を集約した結果「黄金のギアナ帝国」の存在を確信するようになります。

ローリーはギアナ帝国という「エルドラド」の存在を信じ、それを発見する事でエリザベス女王からの信頼を取り戻そうと考えましたが、事はそう簡単ではありませんでした。

1595年2月にイギリスを出発しギアナ高原の奥地の探検に向かいましたがジャングルや大河など厳しい自然に阻まれ、思うような探索は出来ないまま第一回目の探検を終えました。

それでもローリーは諦めず部下をギアナ帝国探索に派遣し、情報収集を続けます。

しかし、1603年エリザベス女王が亡くなったあたりからローリーを取り巻く環境は激変し、ローリーは政争に巻き込まれロンドン塔に12年も幽閉されてしまい、釈放された時には65歳になっていました。

それでもローリーはギアナに向かう気力だけは衰えておらず、探索の航海に出ますが、高齢なうえに肝臓の病気も患っており、厳しい探検隊のリーダーを務めるのはとても無理な状態だったのです。

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ローリー斬首の図

かつては優れた統率力と判断力を有していたローリーでしたが、高齢になってからの無茶な探検では様々な綻びが出てしまい、あるときロバート・ケイミスが無断でスペイン人を攻めた事を激しく叱責し、腹心の部下だったケイミスを自殺に追い込んでしまいます。

多くの部下から信頼の厚かったケイミスが自殺に追い込まれた事で、ローリーの指示に露骨に従わない者も現れ探検を続けていく事が難しくなったのでローリーはやむなく帰国します。

しかし帰国したローリーを待っていたのは新国王ジェイスム1世の厳しい裁定でした。

国王はスペインとの摩擦を警戒し、ローリーの探検航海を許可する条件として、航海中にスペインと武力衝突を起こさない事を確約させたのでした。

そして、もし約束が守られなかった場合は処刑するという事だったのですがローリーはその約束を破ってしまったのです。

1618年10月29日イギリス植民地政策の礎を築いたウォルターローリーはウエストミンスターで斬首刑に処され波乱の生涯を閉じました。