国家が個人に対して敵国の船舶の襲撃を認め、掠奪を許可する免許状を出すという歴史がありました。

このような掠奪免許証をもった個人の船を「私掠船(しりゃくせん)」と言います。

私掠船は厳密に言えば海賊では無いのですが、行為そのものは海賊と何ら変わりありません。

記録に残る最古のものとされている私掠許可は「敵国を悩ませる(annoying the King’senemies)」ため1243年にイギリスのヘンリー3世(1216-1272)によって認められた認可状で、スペインやフランスの商船を襲い積荷を奪っても良いが、収益の半分は国に上納するというものでした。

しかし、それはあくまでも国家が免許状を出した「正式な私掠許可」の事であって、正式な免許状は無くとも、国家が容認した海賊活動は他の国々でも古くからありました。

このころ(13世紀)の私掠船は規模においても頻度においても、国家が関与するというより「当時の権力者がたまたま認めただけ」な感が否めず、歴史的な意義として注目するほどのものではありません。

これが国家ぐるみの大きなビジネスへと変化するのは英国女王エリザベス1世(在位1558-1603)の時代以降のことです。

私掠船は16世紀以降には国王をはじめ国家の要人や権力者たちが出資者となって成果に応じた配当を貰うという、ひとつのビジネスとして確立しましたが、こうした私掠船に対する出資は成功する確率が高く、巨額の見返りが期待できるので権力者は喜んで出資しました。

エリザベス女王直属の私掠船船長フランシスドレイクなどは実に6000%の配当を還したとも言われています。

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ドレイクのスペイン船襲撃

実はこのときの資金が歴史的に有名なイギリスの「東インド会社」に引き継がれる事になりますので、たんなる海賊行為のみならず「公共事業として海賊活動する船」という側面も持っていたのです。

<カリブ海の私掠船>

15世紀末ごろになるとスペインとポルトガルは大西洋を越える海洋事業が本格的に軌道に乗って来ました。

ポルトガルはインド航路の開拓によって巨万の富を築き、スペインは新大陸を発見すると植民地をどんどん獲得して行き、新大陸への航路独占を目論みます。

スペインが侵攻して行った南米大陸は進んだ文明をもつ民族がすでに根付いており独自の文化を形成していました。

現地の権力者たちは莫大な金銀財宝を有しており、スペインは「このエルドラド(黄金郷)は全てスペインの物にしたい」と考え、掠奪を繰り返しました。

大航海時代の第一波に乗り遅れた他の欧州諸国はスペインの独走を焦りながらも何とか新大陸での利権争いに割って入ろうとします。

もともと敵対関係にある国同士が海上で敵国の輸送物資を奪い合うのは珍しい事ではないのですが、フランスもイギリスもいくらスペインと非友好とは言えさすがに民間の船を海軍が襲撃するのは何かと問題です。

そこで私掠船というグレーゾーンが登場してきたのです。

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私掠許可証

また、後発国は仮に交易の拠点(植民地)を持てたとしても、常に他国による攻撃の危険にさらされており、それは対スペインに限らず、イギリスVSフランスもあればイギリスVSオランダもあり得ます。

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トリニダード・トバゴ

たとえば中米の小さな島「トリニダードトバゴ」(上図)の場合、1498年にスペインに征服されて以降、イギリス・オランダ・フランス・ドイツと次々に統治者が入れ替わり、最終的(1802年)にはイギリス領になっている。

もちろん他国の侵略のみならず現地のバッカニアと呼ばれる海賊達も油断していると攻撃を仕掛けてくることもあって大変な脅威でした。

こんな小さな島でさえ次から次へと侵略者達がやってくるような油断ならない時代だったのです。

このような常に危険と隣り合わせのカリブ海で現地の拠点を任された総督たちは港防衛のために本国から来た私掠船のみならず海賊達(バッカニア)さえ雇うようになり、ますます混沌としてきます。

通常は海洋交易の発展にマイナスでしかない海賊に、法的な正当性を与える事で国家は海賊達の戦力を活用できる事になります。

海賊が自国の船や友好国の船は襲わず、敵国の船だけを襲ってくれるなら有難い話で、しかも収益の一部を上納させましたので国家にとってはまさしく一石二鳥でした。

しかし現実はそう甘くはなく、国家の監視が少しでも緩むと海賊達は船舶の国籍などお構いなしに襲い始めてしまいます。

どんな名をつけようが結局は海賊なのですから・・・・

このように私掠船は国家にとっても諸刃の剣だったのです。

史上有名な私掠船船長には次のような人達がいます

フランシス・ドレーク

ウィリアム・キッド

ルネ・デュゲ=トルアン