かつて太平洋を発見した

バスコ・ヌニュス・デ・バルボアの副官を務め、後にそのバルボアを反逆罪で逮捕した男です。

バルボアが探検の途中で耳にした「南の海の向こうの黄金郷」の謎はこの男によって解明されます。

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フランシスコ・ピサロ

その国は「タワンティン・スーユ」といい現在のエクアドルとコロンビアの国境辺りからチリの中央辺りまでを統治していた当時南米最大の帝国でした。

タワンティンとは現地のケチュア語で「4」を意味し。スーユとは「州」とか「地方」を意味します。

この国の事をスペイン人は「インカ(ケチュア語で王を意味します)」と呼び、現代の人々も「インカ帝国」として認識しています。

ピサロは1524年インカ帝国の探索を開始し1531年3度目の挑戦でインカ帝国内部への侵入に成功します。

パナマから南米西海岸に向かう探検ですが、1回目はひどい逆風と波浪に悩まされろくに前に進めず、2回目は西海岸に上陸はしたもののインディオの襲撃にあって一瞬のうちに十数名が惨殺されたり、川を渡る途中でワニに襲われて多くの隊員が死にました。

3度目の挑戦でようやくインカ帝国内部に潜入したのは180名。

この180名が歴史に残る大虐殺と情け容赦のない略奪をおこない、インカ帝国を滅亡に追い込みます。

たったの180人です・・・・

当時のインカ帝国の人口は一千万を超えており、最盛期には1600万人だったと言われます。

しかもインカ帝国は歴史上、ヨーロッパより遥かに高度な文明を誇っていたにもかかわらず、たった180人の略奪者によって永く培ってきた文明の全てが根こそぎ奪われたのです。

はじめにピサロを迎え撃ったインカ皇帝のアタワルパは数万の軍勢を率いてピサロ軍と対峙したとき、そのあまりの戦力差(数だけ)に戦後スペイン人達の処遇まで考えるほど余裕だったといいます。

半分は神の生贄、残りの半分は去勢(男性器を切断)して王宮で使役させる予定でした。

しかし数が多いだけのインカ軍とは違いピサロの軍180人は常々戦いの中に身をおく戦闘のプロであり、所持していた武器もインカ軍とは比べ物になりませんでした。

戦術的にもひとつ上を行っており、素直な現地先住民を出し抜くなど容易い事でした。

大広場での会見でピサロは数万人の兵士に護られて油断し切っている皇帝アタワルパにいとも簡単に近づく事に成功し、いきなり拉致を試みます。

そしてそれを合図に兵士たちが一斉に飛び出し大暴れし、銃や大砲・ホウガンを撃ちまくりました。

インカ帝国軍の石や骨で作った武器などこのような戦いの中では全く役に立たず、インカ軍は戦いが始まって30分もしないうちに2,000人を超える死者を出し大パニックに陥りました。

そして皇帝のアタワルパは捕虜となってしまいインカは最初の一戦で完全に戦意を喪失します。

ピサロは身代金として莫大な金銀財宝を受け取りましたが約束は無視し、アタワルパを解放しませんでした。

そして捕虜にした皇帝アタワルパを巧みに操り国中の金銀財宝を集めさせ、スペイン人達は思うままに財宝を手に入れますが、しだいにインカ軍の反乱を恐れるようになり、アタワルパを処刑すべしという意見が大勢を占めるようになってきます。

アタワルパが存在する限り、インカの先住民が彼を担ぎあげて反乱を起こす可能性があるとして1533年7月皇帝アタワルパは絞首刑にされました。

とんでもなく理不尽で身勝手な処刑です。

現地の人達との約束など無視して身代金を騙し取り、その後も搾り取るだけ取っておいて「そろそろ殺さなきゃ反乱起こしそう」という理由で処刑したのです。

ピサロに限らず全てのコンキスタドール(征服者)の行動は現在の価値観で計ると滅茶苦茶です。

少しでも多くの財宝をスペインに持って帰る事しか考えていません。

スペイン人達はインカ人を人間とはみなしておらず、アタワルパの死後も暴虐の限りをつくしました。

そして高度な文明を誇ったインカ帝国はなす術も無く滅亡したのです。

一言で「暴虐」と言っても具体的に何をしたのか?現代を生きる我々には想像しにくいと思いますので記録に残るものをひとつご紹介します。

「スパイスの王様」と呼ばれるシナモンが多く採れる国があると聞いたピサロは

・完全武装のスペイン兵340人(うち騎兵200)

・豚2,000頭(食糧)

・ラマ2,000頭(荷物担ぎ&非常食)

・合図で人間の喉を食いちぎる訓練済みの犬2,000匹

・荷物担ぎのインディオを4,000人

と言う大部隊でシナモンの国探索に出発し、苦闘の末到着しますが、そこにはシナモンに似ている肉桂があるだけでヨーロッパで珍重されるシナモンはありませんでした。

怒ったピサロは連れて来た2,000頭の犬をけしかけインディオたちを殺し、それでも生き残ったものは火あぶりにしたと言います。

こんなことが実際に行われていたことすら信じられませんが・・・・

記録は1つや2つではなく、もっと聞くに堪えない恐ろしいことも日常起きていました。

また現在のアメリカ大陸を見れば、住んでいる人の大半は欧州人であり、数千万人以上いたはずの先住民族が「少数民族」となっていることからも当時のアメリカ先住民達の苦難は想像に難くありません。

先にも言いましたがたったの180人です

インカの人達はいわば戦う必要の無かった文化人達でした。

豊かで平和に暮らしていた1600万の人間が住む帝国が、ただ戦いに長けていなかっただけで

総人口の0.001%足らずの野蛮人に滅亡させられてしまったのです・・・・・

ピサロはインカ帝国を滅亡に追い込んだ後にも南米大陸の探索の手を広げました。

しかし南米大陸に略奪目的で進出してくるヨーロッパ人は増える一方で、次第にヨーロッパ人同士による内戦も起こるようになります。

ピサロ自身もかつての仲間でもあったディエゴ・デ・アルマグロと争い1538年4月にクスコ郊外のラス・サリナスの戦いで勝利しアルマグロを処刑したものの、1541年6月26日にアルマグロの遺児一派にペルーで暗殺されてしまいます。

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スペイン・トルヒーヨのピサロ騎馬像
南米で暴虐の限りを尽くしたピサロはスペインから見れば「莫大な財宝を国に提供し続けた英雄」であり、1992年から2002年のユーロ導入までスペインで発行されていた1,000ペセタ紙幣に肖像が使用されていたほどです。