戦国時代(安土桃山)瀬戸内海の海賊大名

村上水軍は1349年の南北朝時代に瀬戸内海の覇権を握った一族で、以後1588年の秀吉による海賊停止令が出されるまで繁栄は築くが、その村上水軍の歴史の中でも最盛期を作った人物が村上武吉である。

天正4年(1576年)石山本願寺の戦いでは毛利水軍の一翼を担って織田信長の水軍を叩き潰し、同時に本願寺への物資補給を成功させた。

天下人信長の計画に狂いを生じさせ「村上水軍」の力を天下に示した出来事だった。


イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが執筆した「日本史」に村上水軍に関して次のような記録が残っている

「我々が訪れた瀬戸内海のある島に日本最大の海賊が住んでおり、大きい城を構え多数の部下や船舶を有し、それらの船は絶えず獲物を襲っていた。他国の沿岸や海辺の人々は、彼らによる襲撃を恐れ、毎年貢物を献上していた」

フロイスが村上武吉の元を訪れたこのころは「毛利家」に属しており、形の上では「毛利の武将」だったのだが、
あくまでも毛利武将としての仕事は表向きの公務であって、彼らの活動の一部でしかない。

そんな村上水軍はフロイスの目にもやはり「大名」ではなく「海賊」と映ったようだ。

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村上水軍を見るフロイス


村上水軍は西日本の大動脈だった瀬戸内海で、瀬戸内海の要所に関所を設け往来する船から通行料を徴収して大いに栄えていた。
料金を支払った船は村上水軍の旗印を受け取り帆柱に掲げて納付の証明とし、瀬戸内海運行の安全を保証した。

当時の村上水軍の最も大きな収入源は堺の商人達が取り扱う物産品等の輸送船からの収入だったが、その額は2000貫文だったと伝えられている。
この額がどのような額だったかを現在の貨幣価値に置き換えるのは難しいが、当時としては約6000石(1年間に消費する米6000人分)と同等と考えられるので、そこから推察してほしい。


このように村上武吉は海賊と言っても往来する船の襲撃や略奪より、このような通行料収入がメインであり、この辺りがヨーロッパの海賊達とは少し異なる点だ。

日本のような狭い島国の場合、海賊活動(略奪活動)を継続的に行う事はほぼ不可能である。
1度や2度は成功するかもしれないが長くは続かず、あっという間にその土地の権力者によって駆逐されるだろう。
ほとんどの船が陸からも目視できる所しか往来しないので、襲ってもすぐに騒ぎが周辺に伝わるし、仮にどこかに逃げこんでもすぐに居場所を突き止められてしまう。

したがって海賊として存在する為には地域の支配者の傘下に入るしか方法はなく瀬戸内海に拠点を構える村上水軍も情勢を見極めながら様々な大名の傘下に入りつつ、瀬戸内海の制海権をがっちり確保していた。

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村上武吉の象(村上水軍博物館)

前述のとおり織田信長の時代は毛利水軍として活躍し、一度は織田軍を退けたものの、1578年11月信長の命を受けた九鬼水軍の鉄船に敗れ瀬戸内海の制海権を失った。

その後は豊臣秀吉の「海賊停止令」によって徐々に陸に追いやられ、関ヶ原の戦いでは西軍について伊勢湾沿岸、紀州沿岸、阿波を攻めたが西軍の敗北により日本全国の制海権は徳川幕府が握るに至り、村上水軍は歴史の表舞台から姿を消した。

村上水軍の海上における戦いぶりは後世でも高く評価され、日本海海戦(日露戦争)において当時世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊を撃破した連合艦隊参謀秋山真之の作戦「丁字戦法」は村上水軍の戦略を参考にしたとも言われている。