1254年ベネチアで生まれたとされますが正式な記録は残っていません。

1271年、17歳のとき商人であるニコロ・ポーロ(父)とマテオ・ポーロ(叔父)に同伴し東方(アジア)を目指して旅立ったとされています。

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マルコポーロ肖像画

まずはマルコが生まれる前の父親と叔父の旅からご紹介します。

父ニコロと叔父マテオは1253年に商売の為に中東方面を旅しており、その際現在のイラン・イラクあたりで紛争が起こった為、帰るに帰れず仕方なく迂回ルートを探すべくさらに東に向かい中央アジアの大都市ブラハにまで至りました。

2人の滞在中イルハーン国からフビライハーンのもとに向かう使者がブラハに立ち寄りましたが、使者は2人を見て驚きます。

中央アジアに西洋人が居る事など予想もしていなかったのでしょう。

使者は皇帝フビライがラテン人との会見を普段から強く望んでいた事を知っていた為、2人にフビライの元への随行を強く求めました。

モンゴル帝国の使者ともなれば道中の安全は確実に保証されると同時に商売の上でも大きな利益が期待できますので、2人にとっても悪い話ではなく随行に同意し、2人はフビライハーンのもとに向かうことになります。

モンゴル皇帝フビライハーンは大喜びで2人を厚遇しました。

そしてヨーロッパの国々の様々な情報やヨーロッパ人の生活や習慣などの知識も入手し、2人をローマ教皇への特使に任命し、兄弟はフビライから特別な任務を帯びてヨーロッパに帰還します。

その任務は

①ローマ教皇にフビライの親書を渡す事

②エルサレムから聖油を持ちかえる事

③宣教師を連れてくる事

の3点です。

兄弟は帰路につく際にフビライから金牌を賜りますが、この金牌の効果は凄まじく、ヨーロッパまでの道中を安全に旅できる手形の役割だけにとどまらず、宿泊や食事まで全て保障されると言うエグゼクティブなものでした。

しかし2人がヨーロッパに帰還した時には前ローマ教皇が病没した直後で、2人は仕方なく新教皇選出を待つ為に故郷のベネチアに帰ったのでした。

その後2年がたっても新教皇は選出されず、焦った二人はやむなく教皇の返書無しでモンゴルに向かう事を決めました。

そしてそのとき17歳だったマルコを連れていくことにしたのです。

<少年マルコポーロの旅立ち>

マルコ一行が東に向かった直後、新教皇が選出されました。

それを知らせる使者がマルコ一行を追って来たので、一行はいったん引き返し新教皇の返書を貰ってから再びフビライの元に向かいました。

船で向かう事も検討しましたが、当時の船はあまり安全面で信頼がおけず、陸路で向かう事にします。

途中、随行した宣教師は前途に恐れをなし逃げ出してしまったので、フビライの元に到着したのはニコロ(父)・マテオ(叔父)そしてマルコの3人だけでした。

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マルコポーロの行程図

フビライハンはニコロらの任務遂行を喜び厚くもてなすと同時に、後ろに控える少年マルコに興味を抱きます。

フビライは問います「なぜそのような少年が苦難の旅に同行したのか?」

するとニコロは「これは私のかけがえのない息子です、この息子をぜひ臣下に加えていただきたく連れてまいりました」

フビライはニコロの申し出を喜びます。

そしてマルコを近侍として傍に置くようになりました。

マルコは元々語学の才能に長けていたようで、たちまちのうちに中国及びモンゴルの言語を理解し文字も覚え周囲の人々を驚かせます。

また、若いうちから旅に出た事もあって環境の変化に対する順応力にも優れていました。

フビライハンはそんなマルコの才能をとても愛し、マルコを宮廷の使節として中国全土を周らせます。

旅から帰るたびにマルコはフビライにその土地の面白い話を語って聞かせフビライを大いに喜ばせました。

この時に見聞きした様々な出来事が後に「東方見聞録」として世に出る事となります。

1290年マルコは欧州へ帰還することになりました。

マルコの事を傍に置いておきたいフビライハンは、マルコが帰国を願い出てもなかなか許そうとはしませんでした。

しかし度重なる願い出にとうとう折れて、帰国を許したのです。

そのときも、ただ帰すのではなく特別の任務(イルハーン国の姫を送り届ける)を与える事で、宮廷の特使として道中の安全を保障するという厚遇ぶりでした。

<マルコ獄中で東方を語る>

ベネチアに帰ったマルコはしばらく貿易の仕事に従事しますが、まもなくジェノバ(イタリア北部の都市)との戦争に参加することになり、マルコはこの戦争で捕虜となってしまいます。

ここでマルコは獄中の人達に対して自らが経験した東方での様々な出来事を面白おかしく語って聞かせました。

もともと欧州の人々にとってアジアの未知の話は大変興味深いのに、まして退屈し切っていた獄中の人々はマルコの話の面白さに引き込まれ夢中になります。

囚人だけでなく看守までマルコの話に聞き入ったそうで、ジェノバにとっては敵国の囚人でありながらマルコはジェノバで大変な有名人になってしまいました。

あまりの人気ゆえマルコは後日こんな事を言っています

「毎日毎日、同じ話をウンザリするほど語らされ、これはもう書物に起こすべきだと思った」

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東方見聞録

マルコが捕虜として投獄されていたのと同じ時期にピサの物語作家ルスティケロ・ダ・ピサも投獄されており、彼はマルコの語る興味深いアジアの話を書き留めて整理し1298年牢獄の中で完成したのが「東方見聞録」です。

この東方見聞録は欧州の人々の興味を惹きつけ、後の大航海時代の引き金になります

<東方見聞録>

大きく分けて4つのテーマに分けられていますが、後に翻訳された書物によって章は様々に細分化されており、6章からなる物や8章からなるものなど様々です。

1.フビライの元に到着するまでの行程(中東と中央アジア)

2.フビライの宮廷での話

3.東アジア(ジパング含む)と東南アジア

4.モンゴルおよびロシアなど北方地区の事情

マルコが実際に自ら経験した話から、各地で伝え聞いた話も混在しています。

黄金の国「ジパング」の話はマルコが実際に日本に来たわけではなく、旅の商人から伝え聞いた話とされています。

なお「ジパング」は日本の英名JAPANの語源です。

欧州の人々にとって東方の国々は全く未知の世界です。

そこで繰り広げられる様々な出来事は物語としてはとても面白いのですが、だからと言って俄かに信じられない事ばかりでした。

そのため当時のヨーロッパ人はこの本を「奇想天外なファンタジー」として楽しんだ人が多く、こんな話をまるで現実であるかのように(現実なのだが)大真面目で語るマルコの事を人々は「ホラ吹きマルコ」と言ってからかったと伝わっています。

<マルコポーロの晩年>

ここまで紹介したとおりマルコポーロという人物は話術で人を楽しませる天才だったのだと思います。

それは敵味方を問わず、人種の壁も乗り越えるほど偉大な才能だったのです。

ただ、当時の人々はマルコの話を面白いとは感じても、信じたわけではないようです。

若い頃から永くアジアで冒険し続けた彼の特異な経験は周囲からは孤立を招きました。

また、フビライから本当に大切にされた経験は彼を大ハーン国至上主義と言っても良いほどモンゴルに傾倒させ、事あるごとにモンゴル帝国の素晴らしさを強調した為、ますます周囲からは浮いてしまいます。

「みんな自分の話をデタラメだと思いながら面白半分に聞くだけだ。自分が経験してきた事はいったい何だったんだろう?」

彼の晩年は決して幸福ばかりではなく、このようなジレンマや様々な葛藤があった事が想像されます。

そんな状態はマルコの死後、14世紀になっても続きます。

東方見聞録は欧州の人々にとっては、とっても楽しいファンタジーでした。

しかし、この本をトンデモ本と決めてかかる風潮がある一方で、その内容を正しく評価しようとする動きも次第に出てきます。

真っ先にこの本の記録を評価したのは地図や海図の製作者たちでした。

東方見聞録の記録を元に東アジアやデカン半島の詳細な地図が作成され、それが非常に正確なものである事がしだいに認知されるようになります。

しかしそれはマルコの死後100年以上過ぎた後の事です。

「この東方見聞録がもし正確な記述だとしたら・・・アジアとはなんて奇想天外な場所なんだ!」

ヨーロッパの人々の興味は俄然アジアに向くことになり、それが後に大航海時代を生みだす引き金にもなったのです。