1480年ポルトガルに生まれ1521年41歳の若さで亡くなります。
ポルトガルの下級貴族だったマゼランはフランシスコ・デ・アルメイダのもとでインド洋の拠点経営に携わり、アルフォンソ・デ・アルプケンケの配下としてマラッカ攻略(マレーの要塞)にも加わったポルトガル歴戦の勇士だったのですが、マラッカ攻略戦から帰国した後1517年には最大のライバルでもあったスペインに取り入っています。
マゼランがなぜポルトガルを捨てたのか?は判っていませんが、後にマゼランはスペイン王室の後ろ盾を得て「世界一周」と言う快挙を達成することになります。

マゼランが生きた時代はディアスによる喜望峰の発見、コロンブスの西廻り航海、ガマのインド航路発見など、まさしく大航海時代の真只中であり世界一周もそのうち誰かの手によって成されるであろうという歴史の流れの中にあった事は間違いありません。
マゼランにしても最初から世界一周を目指して出航したわけではなく、最大の目的はシヌス・マグヌスに抜ける海峡の発見であり、世界一周はその副産物でした。
※シヌスマグヌス=大きな湾
当時はアメリカ大陸はアジアの一部と思われており大陸の東側には大きな湾があると考えられていた。
黄金の国ジパングも香辛諸島もその湾の何処かにあるとされていたので、欧州の人達は必死になってその湾にぬけられる海峡を探していた。
今の地図で説明するならば、当時の欧州人は太平洋の存在を知らないという事を前提に想像してみてください。
欧州から船でアメリカ東海岸にまでは来ることが出来ました。
でも、この陸地を抜けないとこれ以上西には行けません。
要はいかにしてアメリカ大陸の西海岸に船で抜けるか?が大命題だったのです。
スペインはその海峡の発見に心血を注ぎますがなかなか上手くいきません。
1502年にはコロンブスがこの命題に挑戦しましたが失敗しました。
1513年バスコ・ヌニュス・デ・バルボアが陸路で西海岸にたどり着き、海の存在(太平洋)は確認しましたがそこに抜ける海峡の発見には至りませんでした。
他にも多くの探検家が様々挑戦しますが上手くいきません。
「本当にそんな海峡は存在するのか?」
相次ぐ失敗にスペイン王朝は焦り不安が募ります。
そんなスペイン王室に対して
「必ず海峡は存在します」
と断言し、その大事業を提案し請け負ったのがマゼランでした。
当時のスペイン国王カルロス1世はそんな自信たっぷりに熱弁をふるうマゼランをいたく気に入ったようで、マゼランと「香辛諸島の発見に関する協約」を結びました。
この協約に一番驚いたのはポルトガルでした。
「スペインがポルトガル人と協約を結んだ!」
などと言う単純で感情的な話ではなく

マゼランはポルトガルにとって非常に危険な人物だった事を憂慮していたのです。
ポルトガルにとってマゼランの何が危険だったのでしょう?
海峡発見の為に力を入れていたのはスペインだけではありません
ポルトガルではヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓した後、その後任のペドロ・アルヴァレス・カブラルがインドに向かう過程でたまたまブラジルのポートセグロ付近に漂着し領土宣言をしました。
そこを拠点に実はポルトガルも密かに海峡発見の探索をしていたのです。
1514年ジョアン・デ・リスボアがラプラタ河(ウルグアイとアルゼンチンの国境にある大河)の河口に到達し、周辺を探索ました。
しかしラプラタ河口は条約上スペインの領土であり、この周辺を探索することは明らかに条約違反です。
マゼランはこのリスボアの助手を務めていた時期があり、ポルトガルの西廻り探検航海の情報をかなり持っていました。
またエンリケ航海王子以来ポルトガルが蓄積した東廻りによる航海の情報も相当深く理解していました。
つまり、ポルトガルの東廻り・西廻り、両方の機密事項に関する知識を有していたマゼランはポルトガルにとっては自国の利益を著しく損ないかねない危険人物だったのです。
マゼランがスペイン国王カルロス1世に対して自信たっぷりに海峡の存在を主張した背景には、このような情報と知識の裏付けがあり、彼なりに海峡の存在を確信しての事だったのです。
マゼランの総司令官就任を知ったポルトガルは様々な妨害工作を行います。
ポルトガルの大使アルヴァロ・ダ・コスタはスペインに訪問した際、随行した者たちにマゼランと彼の協力者フェレイロを暗殺する指令を出しましたが、これはマゼラン側が素早く察知し難を逃れました。
ポルトガルによる説得や脅迫、スパイの暗躍などあらゆる妨害工作がなされましたが、マゼランはことごとくはねのけ1519年9月2日にサンルーカル・デ・バラメーダの港から出航しました。
探検船隊はマゼランの乗るトリニダー号はじめ、サンアントニオ号、コンセプシオン号、ヴィクトリア号、サイティアゴ号の合計5隻のカラック船でした。
この当時のカラック船は後の外洋船とは違い、乗組員の生活などほとんど考慮していません。
船員たちに「部屋」などという物は無く、寒ければ船倉に、暑ければデッキで寝るのが当たり前。
衛生面も最悪で、汗でべとついた体は海水で洗うしかありませんでした。
食糧は出航時に多種多様な食材を搭載したと言われており、特にビスケットや乾燥させたニンニクは長期保存できる食材として重宝がられました。
水分は人間が生きるために欠かせませんが、水を樽に入れただけではすぐに腐ってしまうため、ワインやビールを水分として代用したようです。
食糧に関しては航海の途上でも随時補充されますが、はっきり言って質の良い食べ物などは期待できません。
当時の長期航海の過酷さは想像を絶するもので、乗組員たちは体力的にも精神的にも相当タフでなければ務まりませんでした。
マゼラン艦隊の構成はかなり複雑でした。
提督であるマゼランはポルトガル人、他の船長たちはスペイン人、乗組員はポルトガル人・スペイン人・イギリス人・フランス人・ギリシャ人・ドイツ人・イタリア人に加えイスラム系の者もいればアフリカ人もおり、お世辞にも統制がとれているとは言えませんでした。
なぜこのような構成になってしまったのか?
マゼランは当初、乗組員の大半をポルトガル人で固める腹積もりだったようです。
当時ポルトガルはスペインに比べ航海技術では一歩先を行っており、人材も豊富でした。
しかしその人材は飽和状態にあり、優秀な船乗りの多くが腕をふるう場を求めてスペインのセビリアに移り住んでいました。
マゼランは今回のような未知の海域を探索航海する為には何より乗組員の腕が必要であると考えており「この経験豊富な即戦力達を使わない手はない」と考えていたのです。
確かにスペイン王室はマゼランにこの事業を委任したものの、スペインの上層部全員がこの人事に納得していたわけではありません。
「この事業はスペインの事業であり、提督はマゼランだとしても、最低でも船長達はスペイン人でなければ意味がない」
と考えている上層部の人がたくさんいたのです。
そのためスペイン側は出発前「今回の探索に参加するポルトガル人は従者の5名のみ」という条件をつけました。
マゼランはこれに猛反発します。
未開の海域を探索する航海には何より乗組員の腕が絶対に必要不可欠と考えており、従者や下僕では航海の役には立ちません。
まして周りをスペイン人に固められては統制がとれず名ばかりの提督になってしまう恐れもあります。
マゼランは人数枠の見直しをカルロス1世に直訴しポルトガル人枠を24人まで引き上げる事に成功しました。
ただマゼランは実際に船乗りを採用する段階になってポルトガル人をスペイン人の名目で採用し、枠を大幅に超える37名のポルトガル人を採用しました。
これではスペイン人とポルトガル人の軋轢は深まって当然で、ひいては船全体が険悪な雰囲気にしてしまいました。
このような状態で厳しい航海を強いられる船乗りたちの不満は溜まっていく一方です。
マゼラン自身は最初から過酷な航海が長期にわたる事を覚悟していましたが、その事を部下には告げていませんでした。
これはヘタに不安をあおらない為のマゼランなりの配慮だったのですが、これは完全に逆効果だったようです。
マゼランとスペイン人首脳部は出航直後から激しく対立し、ブラジル到着のころには一触触発の状態にまで関係は悪化していました。
いつ内紛が起きてもおかしくない状況下で航海を続けるマゼラン艦隊にとうとうパタゴニアのサンフリアン港でクーデターが起きます。
首謀者は4人のスペイン人首脳でした
ルイス・デ・メンドーサ(ヴィクトリア号船長)
ガスパール・デ・ケサーラ(コンセプシオン号船長)
ホアン・デ・カルタヘナ
アントニオ・デ・コカ
クーデターグループはまずポルトガル人メスキータが船長を務めるサン・アントニオ号の制圧を目論みます。
このサン・アントニオ号は5隻からなるマゼラン艦隊中最強の火力を誇る船でした。
万一、海戦に突入した場合の事を考えて、まず押さえておきたい船だったのです。
クーデター側は30名の武装した兵士がサンアントニオ号を襲撃し、抗議に出て来た副船長を見せしめのために殺すと、ポルトガル人船長のメスキータを捕縛しサンアントニオ号を制圧しました。
これによってマゼラン側の船は艦船であるトリニーダ号と船隊中最小の75トン船サンティアゴ号のみになってしまい、圧倒的に不利な状況に追い込まれました。
しかしここでクーデター側はマゼランに対し意味不明な行動に出ます。
このような艦隊の内部で起るクーデターならば、提督の主権を奪う事が目的のはずです。
しかしクーデター側はマゼランに対して訳の解らないと言うか、腰の引けた弱気な文書を送り付けます。
「貴殿は我々に酷い扱いをして国王陛下の御心に背いたので、このような事が二度と無いよう我々は力を掌握した。もし貴殿が反省するならば今まで通り貴殿を提督と認め我々は忠誠を尽くすであろう」
こんな感じの内容ですが、
「お前が悪いのだから謝れ、謝ったら許してやる!」ってまるで子供のケンカです^^;。
これに対しマゼランは状況を即座に理解し迅速に対処します。
敵の手のうちにある3隻の船のうち戦力的に最も手薄と思われるヴィクトリア号に狙いを定め、腹心のゴメス・デ・エスピノサを使者として送り込みます。
エスピノサは「話し合いに応じる用意がある」とヴィクトリア号の船長メンドーサ(クーデター首謀者の一人)を油断させ、一瞬の隙をついて襲い掛かりナイフで喉を切り裂くと叫ぶ間もなくメンドーサは息絶えました。
その直後16名の武装兵が乗り込みヴィクトリア号を制圧すると、そのヴィクトリア号とサンティアゴ号で直ちに湾の出口を封鎖して、クーデター側の船2隻を挟撃する態勢を整えました。
残ったクーデター首謀者たちは戦う事なく敗北を認めクーデターは鎮圧されます。
クーデターに対するマゼラン裁定は素早く、また厳しいものでした。
すでにエスピノサによって殺害されているヴィクトリア号の船長メンドーサは死体を八つ裂きにされました。
ガスパール・デ・ケサーラ(コンセプシオン号船長)はサンアントニオ号の副船長を殺害した罪により斬首、ホアン・デ・カルタヘナは厳しい環境のパタゴニアに置き去りにされました。
スペイン人によるクーデターは鎮圧され、マゼラン艦隊は任務を続行します。
現在のブラジル東海岸を南下し海峡を探す探索航海の過程でサンティアゴ号が座礁してしまい艦隊は4隻になっていましたが、全ての船の船長がポルトガル人となり「マゼラン体制」は万全になっていました。
1520年10月21日艦隊は岬を発見しました。
その岬をすぎると海岸線が急激に西に折れており湾のようにも思えましたが奥が閉ざされているようには見えません。
しかし今回の探索航海では似たような地形で何度も裏切られていたので全員が大きな期待はしませんでした。
マゼランはコンセプシオン号とサン・アントニオ号の2隻を探索に派遣しました。

2日後、2隻の安否を確認に行かせた陸上部隊から狼煙が上がりましたが、マゼランを含む留守部隊はその狼煙を2隻の遭難を知らせる合図と解釈し、絶望的な雰囲気に包まれました。
そんな中、コンセプシオン号とサン・アントニオ号が姿を現し、接近すると大砲を放ちました。
甲板の上では乗組員たちが大騒ぎしています。
2隻は海峡を発見して帰って来たのです。
ここで1つハプニングがあります。
マゼランが信頼していた部下のエステバン・ゴメスがサンアントニオ号を乗っ取ってスペインに帰還してしまったのです。
この事件は一般的に「不名誉な逃亡」とされていますが、よく考えてみるとそれは言い過ぎの様な気もします。
マゼラン艦隊の目的は「海峡の発見」でした。
それを果たした時点で「スペインに帰還し報告後もう一度その先を探索すべき」というエステバン・ゴメスの主張はむしろ正論であって
「この先の探索を続ける」としたマゼランの方が無謀に見えます。
バーソロミュー・ディアスが喜望峰を発見したとき、ディアス本人はその先(インド)の航海に挑む気満々だったにもかかわらず、乗組員達の意見を汲んで帰還するという決断を下しました。
マゼランよりずいぶん昔の艦隊のほうが民主的だった事に違和感を覚えます。
乗組員の意見を聞かず強引に無謀な航海に臨むマゼランは結果的に偉業を成し遂げはしますが、その時の航海継続という判断が「正しいものだった」とは言いきれないと思います。
ただエステバン・ゴメスは半年後にスペインに帰還し当局へ陳述した内容が「マゼランはスペイン人船長を処刑し艦隊をポルトガルのものにしようと画策した」というマゼランを貶めるような発言だった事で、後世の人に「胡散臭い奴」と思われてしまったのでしょう。
例えばそのとき「マゼランの決定は無謀な航海の継続であり、大勢の乗組員達を危険にさらす行為だと判断し、自分は離脱を決意した」
と、堂々と自分の決断こそ「勇気ある決断」であると主張していたら、歴史はどのように彼を評価したでしょうか。
それでも「偉業を達成したマゼラン艦隊の逃亡者」という見方をされるような気はしますが・・・^^;
このような不測の事態はあったもののマゼラン艦隊は探索を続けながら船を南西に進めると11月28日、眼前に広大な海が広がり海峡を抜けた事を艦隊に教えてくれました。
後にマゼラン海峡と呼ばれる全長560kmの海峡です。
その後マゼランは進路を北東、すなわち南アメリカ大陸の西海岸を北上しましたが、500Kmほど進めばシヌスマグヌス(大きな湾の意)に到達するつもりだったマゼランの目論みは外れ、どこまで行ってもシヌスマグヌスらしき場所には到達せず、南緯34度付近で進路を北西に変更しました。
太平洋に繰り出したのです。
しかし、マゼラン本人はもちろん乗組員の誰ひとりとして、そこから先に大西洋以上の広大な海が広がっているなどとは思ってもいません。
マゼラン艦隊はこの先約3カ月半にわたって漂流に近い航海を強いられる事となります。
途中陸地など全く無いので食糧には困窮しました。
硬く焼いたビスケットには虫がわき、ネズミの小便も混ざった異様な粉屑と化します。
帆柱に張り付けてあった牛皮は貴重な食料となり、2~3日海水に浸して柔らかくなったところを火であぶって食べました。
ネズミは最高のごちそうです。
もし捕獲に成功した者がいたら、そのネズミを買いたい者たちが群がり陸上ではあり得ない高額で取引されていたと言います。
このような状況下での長期航海はいくら屈強な乗組員といえども普通ではいられず、20人以上が死に30人以上が壊血病などの病気に苦しめられたと言います。
マゼラン艦隊の太平洋航海は後に世に出てくる航海日記から、まったく嵐に遭遇しなかった事が解っています。
その日記をしたためたイタリア人ピガフェッタがこの海を「マール・パチフィコ(平穏な海)」と呼んだことが「パシフィック(太平洋)」の由来です。
マゼラン艦隊は1521年の3月6日にグアム島に到着します。
地球儀を眺めて当時の航海に想いを馳せた時、未知の海を航海中の船がグアム島に漂着する事って奇跡的な出来事だと思えます。
とてつもなく広大な太平洋に浮かぶ一粒の点でしかないのですから。
1521年4月7日艦隊はフィリピンのセブ島に到着しましたが、セブ王はマゼラン一行に対し友好的な態度でした。
そこでマゼランはセブ王をキリスト教に改宗させ、次にセブ島の対岸マクタン島に出かけました。
マクタン島では島民たちにスペイン人とセブ王への服従を強制しましたが、いきなりこんな無礼な物言いを受け入れられるはずがありませんので当然拒否します。
それに怒ったマゼランは町を焼き払い勝手に十字架をたてるという現地の人達の人格など無視した暴挙に出ました。
そして4月27日にマクタンに攻撃を仕掛けます。

マクタンは1500人を超える兵士がいましたが、マゼラン側は60人足らずです。
武器や装備の点で有利だったとしても、さすがにこの戦いは無謀でした。
マゼラン本人は戦死、他にも多くの戦死者を出し生き残った乗組員は命からがら戦場を離脱するのが精一杯でした。
彼がなぜこのような自殺行為に等しい戦いに突入したのか?は判っていません。
マゼランが死んだ後、あれほど友好的だったセブ王が豹変し、40人の船員が捕らえられたので残った船員達は捕縛された仲間を見捨て、大急ぎで逃げるようにセブ島を出航しました。
損傷の激しかったコンセプシオン号は焼却され、かつてのマゼラン旗艦だったトリニダー号は香辛諸島で50人の乗組員を乗せて本隊と別れパナマを目指しました。
本隊とは逆走の太平洋再横断でしたが、逆風に悩まされ食糧不足で香辛諸島に引き返してきたところをポルトガル軍に捕縛されてしまいます。
このときトリニダー号に乗っていたポルトガル人は「裏切り者」として処刑されてしまいました。
1522年9月6日「ヴィクトリア号」が息も絶え絶えにスペインに帰還します。

帆船5隻、乗組員約270人で出航したマゼラン艦隊ですが、スペインに帰還したのは船長のホアン・セバスチャン・デ・エルカーノ以下18名だけでした。
提督のマゼランは世界周航の途中で倒れ、偉業を達成した瞬間には立ち会えませんでしたが、計画の立案から反乱の鎮圧・海峡発見後の航海続行など、強引とも言えるマゼランの強力なリーダシップと行動力が無ければ成し得なかった事です。
マゼラン艦隊によって地球が球体であることが実証され、シヌスマグヌスは大西洋以上の広大な海「太平洋」であることが解りました。
太平洋の本格的な探索はまだかなり後の時代(17世紀)になってからですが、マゼランの航海がその指針となったことは間違いありません。