カリブ海の島ハイチで生まれたフランス人で、ハイチ革命の最中フランス人に対する迫害と暴力から逃れるため兄のピエール・ラフィットと共にルイジアナに逃げて来たとされている。

商品売買による交易のかたわら私掠活動(海賊活動)にも精を出し、1805年頃にはニューオリンズで兄と共に居酒屋(Lafittes Blacksmith Shop=ラフィット鍛冶屋)を開いた。

200px-lafittesblacksmithshop
ラフィット鍛冶屋(現存)

しかし、レオパード号事件(イギリス船がアメリカ船を攻撃した事件で第2次独立戦争の引き金の一つになった)によって入出港する船に様々な規制が掛けられ、思うように商売が出来なくなったため、ミシシッピー河口のバラタリア島に活動拠点を移した。

ラフィットはバラタリア島の誰も住んでいなかった小さい島をアジトに、勝手知ったるニューオリンズとの密輸で大成功をおさめる。いつしかその街は「Privateer Kingdom(海賊王国)」と呼ばれるようにるほど発展するのだった。

彼は自らを「自由な貿易商」と名乗り、商人としての成功を周囲に強調しようとしていたようだが、それは密輸というダーティーな部分での成功であり、彼が「バッカニア(カリブの海賊の総称)」である事は誰の目にも明らかだった。

1812年アメリカとイギリスの間で第二次独立戦争と呼ばれる「1812戦争」が起ったが、イギリスはバラタリア島の密輸業者たちを脅威と考え、ラフィットに対して、もし大英帝国に従うなら大尉の位に任じ3万ドルの現金と土地を譲渡することを約束するが、もし拒否するならバラタリアを攻撃する言ってきた。

しかしラフィットはこの申し出を拒否し、逆にアメリカ政府に忠誠を誓った。

ところが海賊を根絶させたいと考えていた当時のアメリカ政府は、彼の忠誠心は全く信用せず「バラタリアがイギリスと同盟を結ぶ恐れあり」として逆にラフィットに攻撃を仕掛けたのだ。

何とかその場は逃げ延びたラフィットだが、敵のイギリスのみならず忠誠を誓ったはずのアメリカ政府にまで狙われては万事休すかと思われた。

しかしこのとき、独立戦争にも従軍したジャクソン将軍は当時の海軍力の現状を冷静に分析し、イギリスの強力な海軍力に対抗する為にはアメリカの貧弱な海軍だけではとても無理であり、アメリカ周辺の海賊や密輸業者に私掠許可を与える事で、自国海軍の弱点を補おうと考えた。

つまりラフィットを戦力として活用する方がアメリカ合衆国にとって益があると判断したのだ。

結局アメリカ軍とラフィットは協力する事となり、その結果ラフィットはバラタリアの密輸業者や海賊達1000人以上を従軍させ、合衆国軍と共にイギリス軍を追い払う事に成功したのだった。

この功績が認められ、マディスン大統領によって、この戦いに協力した海賊達は赦免を受けることとなり、ラフィットも真っ当な貿易商としての活動が認められるようになった。

しかし、根っからの海賊ラフィットには平穏な生活は馴染めず、彼はメキシコ政府から私掠許可を貰い、海賊活動を続ける道を選ぶ。

主な相手はスペイン船だが、ラフィットが襲撃した船はキューバ船やアメリカ船など国籍を問わなかった。

一度は忠誠を誓い、恩赦まで受けたアメリカ船を平然と襲うあたり、ラフィットは根っからの海賊だったのだろう。

lafitte
ジャン・ラフィット

ただ、彼の場合は海賊をあくまでもビジネス手段の一つとしか考えていない節があり、そのせいか拿捕した船に大した積荷も無くビジネスとして価値のない船だと判断すると、普通の海賊なら怒って船員達に八つ当たりの一つもするものなのだが、ラフィットはあっさり船員もろとも解放したと言われており「船員を無傷で返す海賊」として有名で「紳士海賊」と呼ぶ者さえいたと言う。

そんな彼の最期についてはよくわかっていない。

イリノイ州で没したという文献が最も多いが、ユカタン半島のジャングルのどこかでのたれ死んだという話もあれば、イギリス人将校と刺し違えて死んだという話もある。

またハリケーンで死んだという話まであり、真相は全くわからない。

カリブ海の海賊黄金時代も終わり、イギリスから独立したアメリカ合衆国はこれ以後ますます海上の治安維持に力を入れる事になり、カリブ海周辺の海賊行為はめっきり減っていくこの時代、海賊が天職とさえ言えるラフィットは生まれてくるのが少し遅かった「最期のバッカニア」だったのかもしれない。