「キャプテン・キッド」として世界中に名前が通った有名な海賊だが、彼ほど伝説と実情がかけ離れた海賊も珍しい。
自らは海賊になる気などなかったのに気づいたら海賊船の船長になっていたという
勇猛果敢な海賊のイメージにはそぐわない極めて普通の男だった。

海での生活に憧れて私掠船としての活動を願い出て許され、西インド諸島で私掠船の船長として活動をはじめたものの、1691年、部下のロバート・カリファドらに反乱を起こされ、島に置き去りにされてしまう。
キッドは私掠船の船長として真面目?に許された私掠行為(敵国の船のみを襲う)をしようとしたがカリファドら一派は、元々海賊なのでもっと自由な掠奪活動がしたかったのだ。
その後キッドはなんとか島から脱出し、ニューヨークで結婚し安定した生活を手に入れるが、どうしても海が忘れられず1696年の春、ロンドンに赴き、再び私掠船の免許証を手に入れようと尽力した。
ちょうどイギリスが国家を挙げて海賊の取り締まりに乗り出し始めたころだったので
「貿易を阻害する海賊を捕らえる」ことと「敵国であるフランス船の拿捕」を国王ウイリアム3世から許されアドベンチャー・ギャレー号に乗り込んでインド洋へと出航した。
しかし、前述したとおりイギリスは国家を挙げて海軍の増強を進めていたので、優秀な水夫は水兵強制徴募隊でほとんど軍に持って行かれ、その結果、集まった船員は一般の船乗りではなく海賊出身者がほとんどになってしまう。
欧州からインド洋に向かうまでにコレラ等の伝染病もあって多くの死者を出し、その都度船員を補充するが、やはり集まるのは海賊出身者ばかりで、気づいたらボスのキッド以外は全員が海賊となっていた。
キッドはあくまでも許された掠奪に拘るが、部下達にそんな思いは全くない。
目の前に商船が現れればキッドの制止を無視して勝手に襲撃を始める始末だった。
船長と部下の思いが食い違ったまま数年海をさまよい続けたが、キッドの前についに「獲物」が現れた。
フランスの通行証を持つクェダマーチャント号だ。

襲撃は成功し莫大なお宝を手に入れ意気揚々とセントメアリ島へと連れて行ったところ、偶然にも過去に自分を裏切ったカリファドの船が停泊していた。
現時点での戦力は完全に勝っており恨みを晴らすチャンスである。
キッドは部下達に攻撃を命じたが、ここでまた部下達に裏切られる事になる・・・・
クェダマーチャント号から莫大なお宝を奪ったといっても、それは国王や出資者達のものであって
乗組員たちは命を賭けたに見合うような報酬は受けておらず不満の方が大きかったのだろう。
まして元々海賊の部下達は同じ海賊仲間を攻撃するのは嫌だったのだ
仕方なくクェダマーチャント号から奪ったお宝の一部を分け与え従わせようとしたが、部下達は分け前を貰ったとたん
大半がカリファドの元に走ってしまったのである。
キッドは失意のうちにニューヨークへと向かったが、実はキッドがクェダマーチャント号を襲撃・掠奪したことで、ロンドンではキッドの首に賞金まで掛けられていた。
クェダマーチャント号は敵国フランスの通行許可証を使用しているといっても、持ち主はインドの商人、船長はイギリス人、士官はオランダ人という多国籍船だったことも災いしたのだろうか。
政治的な思惑もあって「東インドの疫病神」とまで言われていたキッドは最終的にボストンの友人に裏切られ逮捕されてしまう。
まともな裁判も受けさせてもらえず、キッドに有利な証拠は一切無視され1701年5月23日にロンドンのテムズ河で絞首刑に処された。
テムズ河口にさらされたキッド
キッドの死体には腐って爛れ落ちないようタールが塗られ、鉄の輪にはめられ数年間テムズ河口にさらされていた。
海賊達への見せしめのために。
正直言ってキッドは一流の大海賊とは言いがたい。
そんな彼が、なぜ伝説の大海賊となりえたか?
それは彼の死に様があまりに哀れで、死後の扱いも衝撃的だったことと、もうひとつ宝島伝説によるところが大きい。
彼は処刑の前に「莫大な宝をある島に置いてきた」と訴えている。
結局無視され処刑されたが、この一言は作家達の創作意欲を大いに刺激し、エドガー・アラン・ポーの『黄金虫』やロバート・スチーブンソンの『宝島』などの名作がキッドをモデルに描かれている。
また後年、彼の活動拠点に近かったガーディナーズ島(ニューヨークのロング・アイランド島の東)や、カナダのオーク島で隠されていた財宝が見つかり「隠し財宝」伝説は世界中の冒険家たちにますます現実的な夢を与えたのだ。
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