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ジョン・ホーキンス

1532年イングランドのプリマス生まれ。

私掠船の船長だったことは間違いないが、一般的にイメージ出来る「海賊」のように戦って敵船を拿捕するといった記録は少ない。

ただ相手に対して有無を言わさぬ強引な手法で商売する様は、海賊のそれと何ら変わりないどころか、それ以上の狡猾さを持った奴隷商人だ。

後の大海賊フランシス・ドレークとは従兄弟に当たり、ドレークにとってホーキンスは海賊としてのお手本でもあった。

当時のイギリスはスペインとは友好な関係を築けていたのだが新大陸の発見後スペインはそのルートを独占し、友好国のイギリスさえも受け入れようとはしなかった。

1562年、ホーキンスは自らの船である120トンのソロモン号と100トンのスワロー号に加え拿捕したポルトガルの奴隷船の計3隻でギニアから300人の黒人奴隷を積み込んで、現在のドミニカ共和国の首都サントドミンゴで彼らを売り捌いた。

この航海で莫大な利益をあげたホーキンスに対し、次回の航海にはイギリスの資本家達はこぞって出資を申し出たが、その中には王室も含まれており、エリザベス女王は700トンの巨大船ジーザス・オブ・リューベック号を提供している。

2回目の航海も大成功で400人の黒人奴隷をドミニカ・ベネズエラ・コロンビアで売り捌き、前回以上の利益をあげてイギリスに帰ってきた。

彼に投資した資本家には60%を超える利益を得たという。

この2回目の航海の際、ベネズエラのボルブラタという港で、現地当局を脅すような軍事ショーを行い無理やり交易したあと、同じテクニックをコロンビアのリオアチャでも使い積荷を売り捌くという強引な手法がスペインの怒りを買い、ロンドン駐在のスペイン大使は女王に強く抗議したが、ホーキンスはそんな事はおかまい無しに3度目の航海を女王に提案する。

しかし、その目論見は見事にはずれホーキンスはカリブ海でハリケーンに巻き込まれ、傷んだ船の修繕のためサン・ファン・デ・ウルアの港に強引に入り込んだ。

船の修繕が済み次第出て行くという約束だったが、運悪くそこにスペインの護衛艦隊が到着した。

ホーキンスは自分達が安全に出航できる事を条件にスペイン船の港への入港を許可すると通告したが

スペインにしてみればホーキンスこそ不法入国者であり、そんな通告は笑止千万なことだった。

そしてスペイン船は通告を受け入れた振りをして港に入っていくと、港の出口付近にいた海賊船に襲い掛かった。

スペイン兵が一挙になだれ込み不意を突かれた形となったホーキンズ一味だったが、別の船にいたホーキンスはこの船に砲弾を撃ち込み、そのドサクサに紛れて脱出しようとした。

しかしスペイン軍も怯まず、港の内部で丸一日に及ぶ激しい戦いが繰り広げられた。

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サン・ファン・デ・ウルアの港

このときかろうじて逃げてこられたのはホーキンスの乗るミニオン号と従兄弟である後の大海賊ドレイクの乗るジュディス号の2隻だけだった。

ミニオン号には200人以上の船員が乗っていたがスペイン軍の激しい追撃もあってイギリスの地を踏むことが出来たのはわずか15人という惨めな帰還だった。

この戦いは「サン・フアン・デ・ウルアの戦い」と呼ばれ、ホーキンス当人はもちろん、このとき20代の半ばだったフランシス・ドレイクはスペインに対して拭い去れない敵対心を植えつけられたという。

ホーキンスはエリザベス女王が海賊を「集金マシーン」として頼りにするようになり、後にイギリスが海賊国家として成り上がっていく先鞭をつけた国家公認の私掠船長だった。

ジョン・ホーキンスは1595年11月12日航海途中に赤痢にて死亡した。