1394年3月ポルトガル国王ジョアン一世の三男として生まれました。
「大航海時代」の幕を開いた事で歴史に名を残していますが、最近の研究ではエンリケが行ったとされる事業のうちいくつかは後の創作であるとされ、海洋事業家として評価が分かれている人物でもあります。

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エンリケ航海王子


もともとエンリケは「貿易」や「探検」のような海洋事業に興味を持っていたわけではなく
イスラム勢力に対抗する手段として海に可能性を見いだしていた
ものと思われますが、様々な政策を実行して行く過程で徐々に航海にも目ざめていったように見えます。


まずは当時の欧州諸国の事情から考えてみましょう


<イスラムとの戦い>

1096年の第1次十字軍遠征からすでに300年近くが過ぎたこのころ、大半のヨーロッパ諸国はイスラムとの戦いを「不毛な戦い」と感じ始めていました。

イスラム勢力に対して一時的に優位に立つことはあっても駆逐するには至るはずもなく、
特に西ヨーロッパ諸国にしてみれば、遠く東方で起きている結果を伴わない争いより隣国との優劣の方がよほど重大な懸案事項です。

しかしそんな中、ポルトガル・カスティリャ・アラゴン(カスティリャ・アラゴンは後のスペイン)の3カ国だけは他の西ヨーロッパ諸国とは少々事情が違っていました。

この3国はお互いに牽制し合うライバル国ではありましたがイスラムと戦うという気概においては共通しており、実際にこの当時はイベリア半島の南部グラナダを拠点に存在する「ナルス朝」というイスラム勢力と争っていたのです。

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イベリア半島

もともとイベリア半島の大半はイスラム勢力でしたが、この3国がレコンキスタ(国土回復運動)によって半島内で勢力を拡大し、やっとの思いでイスラムを南部グラナダまで押し返したという経緯が有り、つまりこの3国にとっては他の西ヨーロッパ諸国とは違ってイスラムとの戦いは現在進行形だったのです。


当時エンリケは父親のジョアン1世に次のような進言をしています
「カスティリャ・アラゴンが敵であるのはたまたまそうなっただけである。何故なら彼らもキリスト教徒だから。しかしイスラム教徒は本質的に我々の敵である」

「キリスト教徒同士戦ってる場合ではない」という十字軍が遠征に出た理由と全く同じ考え方です。

若い頃のエンリケは「航海による海洋事業の発展」より「イスラムとの戦い」の方に気持ちの比重が寄っていたように見えます。

1415年8月ポルトガルはジブラルタル海峡を挟んだ対岸のアフリカ都市セウタ(イスラム勢力)を突然襲いました。
セウタ側も頑強に抵抗したものの200隻を超える軍艦と5万の軍隊で奇襲をかけたポルトガル軍にはかなわず、丸1日の攻防の末陥落します。

ポルトガルがこの戦いに臨んだ理由は諸説ありますが、いずれにせよ若き日のエンリケの思想と同じ「イスラム打倒派」と現実的に隣国の驚異に備えたい「カスティリャ・アラゴン対抗派」という2つの勢力の利害関係が一致したのは間違いありません。

この戦いの準備期間と、戦後のセウタでの見聞がエンリケを「航海」に目覚めさせるきっかけになります。




<航海事業に着手>

ポルトガルのセウタ攻略によってエンリケは次の3点を学びました。

1.長期航海の可能性
遠征準備中にエンリケは経験豊富な船乗りたちと数多く接する事ができ、食糧さえしっかり準備すれば長期の航海にも耐えられる事がわかった。

2.海軍の重要性
イスラム勢力に対し陸戦で歯が立たなくても海戦なら勝てる可能性がある事を実感した。

3.アフリカの地理情報
ヨーロッパ人がまだ未踏の地であるアフリカの西海岸沿いにイスラム勢力が到達している事実。及びセウタの商人達からのアフリカ地理情報を仕入れた。

これらのことを基にエンリケは「航海によってアフリカ大陸に進出しイスラム勢力を背後から攻略しよう」という壮大な構想を練り、実現のためにアフリカ大陸のどこかに必ず実在するキリスト教君主プレスタージョンとの同盟を締結させるべく、プレスタージョンの所在の探索に力を注ぐことになります。
プレスタージョンの解説はここ(別窓で開きます)

具体的な目標ができたエンリケにとって何をするにも宮廷は動きづらい場所でした。
そこでラゴス港の近くに居を構え、そこで航海に必要な地理学や数学・天文学など精力的に学ぶと同時に、情報収集にも努め、各分野の専門家や船乗りたちを自宅周辺に住まわせました。

この町は後に「王子の村」と呼ばれ「航海学校」も設立されたと伝わっており実際にサグレスという町には航海学校の建物跡地まであるのですが・・・・・
村の存在そのものの否定はされていませんが、この学校をはじめとする多くの逸話が後の創作とも言われています。



<世界の果て>

航海事業に乗り出したエンリケはアフリカの西海岸を積極的に探索します。
ただ、エンリケ自身が船に乗ることはなくもっぱらプロデュースに徹していました

当時のポルトガル知識人のレベルでは「地球は丸い」とある程度理解する人も多かったようですが、確証はなく、ただ様々な状況証拠から
「地球が丸いという説はもしかしたら真実ではなかろうか?」
という程度の理解です。


ましてこれが一般人ともなれば地面が丸いなどという実感からかけ離れた説など信じられるはずもなく「世界には果てがある」と考えるのが普通でした。

その「南の果て」とされていたのがカナリア諸島から約240㎞南にある岬「ボジャドール岬」です。

ヨーロッパの船乗りたちにとって南の果てであるボジャドール岬がいかに恐ろしい場所であったか?は
当サイト内のこちらでご覧下さい(別窓で開きます)

しかしエンリケはこのボジャドール伝説は迷信であると確信しており、尻込みする部下たちを叱咤激励しながら探索を続けさせ1434年に従士のジル・エアネスがこの地を踏破したことで欧州に永い間伝わってきた迷信に終止符が打たれました。




これによりアフリカ西海岸の探査航海が一気に進捗加速することになりエンリケもより一層航海事業に精力を注ぐことになります。
しかしエンリケを取り巻く環境は順風満帆なばかりではなく大きな挫折もありました。

1437年エンリケは周囲の反対を押し切る形で北アフリカのタンジールに派兵しイスラム勢力と戦いますが、この遠征は失敗に終わります。
この戦いで弟のフェルナンド王子が捕虜になり、そのまま帰国することなく捕虜として亡くなってしまったこともあり、
エンリケは軍事指導者としては国内での発言力は全くなくなり、探検事業にしか手が出せなくなってしまいます。

幸か不幸かこの失敗によってエンリケは前述の王子の村で66歳の生涯を閉じるまで西アフリカ周辺の島々の開発や国内での航海技術者の育成など様々な海洋事業に打ち込むこととなり、後世に「航海王子」という敬称で称えられるようになったのです。

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エンリケ航海王子像