ハイレディンはバルバロッサ・ウルージの実の弟で、彼のトレードマークもやはり「バルバロッサ(赤髭)」だった。

ウルージが死んだ後、跡を継ぐかのように地中海で大暴れした海賊だ。

ただ、実の兄弟だからといってウルージとことさら協力関係にあったわけではない。

ハイレディンはただひたすら攻撃的で残虐だった兄ウルージと比べると遥かに政治力に長けた教養人で、6ヶ国語を自由に操ったと言われる。

兄のウルージがアルジェでスペイン軍との戦闘で死んだ時の動きも素晴らしく早くて的確だった。

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バルバロッサ・ハイレディン

イスタンブールに使者を送りオスマントルコの皇帝セリム1世にアルジェを献上する旨を伝え、そして自らはアルジェの大提督に就任してしまったのだ。

このためオスマントルコ帝国から2,000名を超える精鋭部隊がアルジェに派遣されハイレディンの指揮下に入った事によって、アルジェを攻撃する事は、すなわちオスマントルコを攻撃した事となりスペインはウルージ時代のようにそう簡単にはアルジェに手を出せなくなってしまった。

こうしてハイレディンは敵対するキリスト教世界の国々からは「災厄」とまで言われるようになる。

ハイレディンの野望はアルジェのみにとどまらず、周辺都市を次々に攻略し金銀財宝だけでなく中部バルバリアの人達も奴隷として捕獲し、いつしかトルコ帝国の総帥にまで上りつめ地中海全体の支配者になってしまった。

キリスト教国も黙って見ていたばかりではなく1535年には神聖ローマ帝国皇帝のチャールズ5世が、かつてハイレディンによって奪われた土地チュニス(現チュニジア)を、再びハイレディンから奪い返すなど激しい抵抗を見せていた。

1538年ハイレディンはギリシャ西のプレヴェザにおいてキリスト教国と雌雄を決する戦いに臨むことになる。

120隻ほどのハイレディン軍に対して200隻を超えるキリスト教国連合艦隊に対して、戦略家ハイレディンはまともに戦っては不利と悟り、アルタ湾という港で待機し敵を待ち伏せする作戦に出た。

キリスト教国連合軍は湾の入り口で、みすみす罠にかかりに行くようなものだとして湾内への侵入をためらい全面攻撃が仕掛けられず手をこまねいていた。

部分的な激突はあったもののキリスト教連合国にとっては数による優位性が崩されてしまったいじょう、戦いが長引いても利は無いので引き揚げる事となる。

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プレヴェザ海戦

ハイレディンの戦術によって勝利がもたらされたオスマントルコ側はこれを「オスマントルコ軍の大いなる勝利」として大々的に祝った。

 

これ以後ハイレディンはアルジェを海賊の拠点としてますます強化し、海賊達もわがもの顔で地中海に漕ぎだすようになる。

この地(アルジェ)は前述のとおり名目上はオスマントルコの植民地ではあるが、実態は海賊(ハイレディン)の自治区であり、彼らが統治する海賊の国となったのだ。

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16世紀のアルジェリア

それはすなわち国家による自治とは無縁の無法地帯であり、暗殺・掠奪・暴力など人間の闇の部分が支配する暗黒の世界がハイレディンが死ぬまで、約30年以上続く事になるのである。