フランス名門貴族出身のバッカニア
「シュバリエ・ド・グラモン」というニックネームで紹介される事が多い。
フランス在住時代、妹の求婚者を決闘で殺したが、それが正統な事由での決闘とはみなされずパリで貴族として暮らしていく事が出来なくなった為フランス王室海軍に入隊し西インド諸島にやってきた。

そこで私掠船の船長として最初の襲撃で400万ドルの価値があると言われていたオランダ船の拿捕に成功し、その後もオランダ船・スペイン船を中心に私掠活動を続けた。
本人はフランスに戻る事を望んでいたようだが、それが叶わないと悟りバッカニアの仲間に加わる。
グラモンにとってもっとも大きな収穫と悪名を届かせたのは、1683年メキシコ湾に面する都市ベラクルスの襲撃だろう。
このときグラモンも含め七人の海賊船長が参加し、総勢1000人での襲撃作戦だった。
彼らが港に近づいたとき面白い情報を手に入れた。
ベラクルスでは2隻のスペイン船による物資補給が予定されており、町の人々はそれを待ち焦がれていると言う情報だった。
そこでグラモンらは2隻の船に海賊800人をぎゅうぎゅう詰めに押し込み、スペインの国旗を掲げて、ベラクルスの人々が待ち焦がれた船を装い、堂々と入港したのである。
早朝に入港したので町の人々が目をさましたときにはすでに800人の海賊が町に一気になだれ込んでいた。
海賊たちはそれから4日間にわたり掠奪をつくし総督を捕らえ多額の身代金をせしめ、1300人を超える人を奴隷として拉致したのだ。

バッカニアが大暴れした時代は大航海時代の真只中でありまさしく激動の時代だ。
それゆえどのような人間がバッカニアに成り下がろうとも不思議ではない。
それでもやはり圧倒的に多いのは社会の最下層の人達であり、このグラモンのように貴族であり王室海軍出身という超一流ブランドは珍しい。
だが皆無と言うわけではない。
時代が時代なので記録に残っていないものも含めると相当数に昇ったかもしれない。
例えば英国陸軍将校で紳士階級をもっていたスティード・ボネットのような海賊もいるにはいるのだが、このような上流階級出身者はみな一様に他の海賊から舐められ散々な目に合っている。
しかしこのグラモンは人望も厚く他の海賊たちから慕われ、船長としての度胸・勇気も持ち合わせていた。
まるで貴族であったことが間違いだったかのように。
ミシェル・ド・グラモンは1686年フロリダ沖で嵐に遭遇し波乱人生の幕を閉じたと伝わっている。