「バルトロメウ・ディアス」はポルトガル語で読んだ場合の発音で、英語読みでは「バーソロミュー・ディアス」

日本人にはこの方が浸透しているかもしれません。

航海事業が軌道に乗りつつあったポルトガルにエンリケの意志を継いだかのような、航海に対して情熱的な若きリーダー「ジョアン2世」が登場します。

彼はエンリケと比べて非常に気が短い人で、成果を気長に待ったエンリケとは異なり探索に少しでも手抜きが見えようものなら容赦なく罰するような厳しさを持っていました。
その為人々からは「完璧王」と呼ばれ恐れられます。

ポルトガルが国を挙げて推進した「プレスタージョンとの同盟締結」「航海による東国(インド)との交易」はどちらも未だ達成されていません。
ただジョアン2世は「プレスタージョンとの同盟締結」に関しては「アフリカ大陸の探索が進めば必ず接触できる」と比較的楽観視しており、むしろ懸念していたのは「航海による東国(インド)との交易」の方でした。

この地図をご覧ください
これは当時最も権威のあったプトレマイオスの地理学に基づいて作成された世界地図です。

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プトレマイオスの世界地図


このようにインド洋は巨大な内海と考えられており、これでは大西洋(アフリカ大陸の西岸)をいくら南下しても東の海(インド洋)に抜ける事は不可能です。

しかし、このころポルトガルの上層部はそれまでの様々な航海者からの情報やアフリカ・アジアの商人達から得られる情報を総括したところ、この地図自体に疑問を持つ人が増え始め「ある仮説」を立てるに至りました。
それは「大西洋とインド洋は繋がっているかもしれない」というものです。
現代でこそ誰もが知っている当たり前の事実ですが、当時の欧州人達が信じていた世界観とは大きく反する思い切った仮説でした。

国王ジョアン2世はその仮説を実証すべく探査航海にますます力を入れていきますが1486年プレスタージョンに関する有力な情報がもたらされました。

それはオガネと呼ばれる王で、ヨーロッパで言うところの教皇のような存在であり、周辺地域の国家で王位継承などがあった場合などオガネ王に報告し承認を得る慣例があるというほど周辺地域では崇められていた王です。

現代ではこのオガネ王はナイジェリアのイファ国を治めていたオニ王であると推測されますが、当時のポルトガル人にそんな事が判るはずもなく、ジョアン2世は「オガネ王こそプレスタージョンに違いない」と考えました


そして陸路と海路の両方からプレスタージョンに接触を図るべく探索隊が組織され、その海路の責任者として任命されたのがバーソロミュー・ディアス(Bartolomeu Dias1450年頃~1500年5月29日)です。

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ケープタウン(アフリカ南端)のディアス像


1478年8月、ディアスは3隻の船を率いてリスボンを出航しました。
アフリカの西海岸を南下し当時ポルト

ガル人が到達した最南地域であったクロス岬をあっさり越えるとワルヴィス湾に到達。
そこで補給用の船を一隻残して他の2隻はさらに南下しオレンジ川の河口に到達しますが、このオレンジ河は現代の南アフリカとナビビアの国境なので、この時点でディアスはアフリカ最南端に相当近づいていたことになります。

しかし、そもそもアフリカに南端がある事さえ知らない当時のポルトガル人達には、自分たちがアフリカのどのあたりにいるのか知る由もなく、最南端が見えるまでひたすら南下するしかとるべき道はありません。

そんなディアス一行を嵐が襲いました。
強い強風にあおられ船は南へ南へと流されてしまったのです。

船員たちは必死に船を操作し、入って来た海水をかき出し、お互いの体を命綱で結びながら死に物狂いで嵐に対処しました。

嵐がようやく収まったのは2週間後、周囲は海ばかりで陸地は全く見えません。

ただ欧州の船乗りたちは大西洋で嵐に遭遇した場合の対処法を心得ていました。
それは、仮に陸が見えなくなっても「東」に舵をとれば必ずアフリカ大陸の西海岸が見えてくるというものでした。

確かにどの方向に流されたとしても東に向かえば理論的にはアフリカ西海岸に到達するはずで、アメリカ大陸の存在を知らない当時の欧州人にとっては、ひたすら西に向かうのは世界の果てに向かうことになり、相当な恐怖でしょうが、東に向かう場合は陸地に近づいているはずだという安心感もあります。

ところが・・・
どれだけ東に進んでもいっこうに陸地が見えてきません。

船員たちは焦りました。
古今東西、航海において最も恐ろしいのは「自分が今どこにいるか判らなくなること」
ディアス艦隊は大洋での漂流という最悪の事態に陥ってしまったのです。

ただこの艦隊がパニックに陥る事はありませんでした。
航海において百戦錬磨のディアスは冷静で、自分たちが置かれている状況を分析し事情を察すると艦隊に次のような命令を出します。

「進路を北にとれ」

ディアスは「アフリカの最南端を越えたのではないか?」
と推測したのです。

ディアスの推理は当たりました。

船はアフリカ最南端を越えていたため進路を北にとった事でアフリカの南海岸に到達したのです。
しかもアフリカの南端と思われるところから北に向かって海岸線が続いており、つまりアフリカの東海岸が見えました。

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ディアスの往復航路


そうだとすれば
「このままアフリカの東海岸を北上すればインド(アジア)に到達する可能性は高い」
とディアスは考え、航海を継続する気満々でしたが、船員たちは補給船(ワルヴィス湾に停泊させた)とあまりに遠く離れる危険性を訴え、航海の継続に反対しました。

確かに未知の海での漂流という災難にも見舞われた船員たちの体力・精神状態は限界を超えており、ディアスもこのまま航海を続行することは不可能と判断し、ポルトガルに帰国する苦渋の決断をしたのです。

ディアス艦隊がポルトガルへの帰路でアフリカの南海岸を西に向かっているとき、往路では嵐で流されていた為に見逃したと思われる岬を発見しました。


ディアスはこの岬を「嵐の岬」と命名しましたが、ディアスの報告を受けた国王ジョアン2世は

「今回の航海の成果はポルトガルにとって計り知れない物であり、この岬はポルトガルの希望だ」

として「嵐の岬」⇒「喜望峰」と改名しました。

欧州で古くから信じられていたプトレマイオスの世界観は崩れ、欧州とアジアの航海による交易という、当時としては夢のような計画が現実味を帯びてきたのです。

バーソロミュー・ディアスの功績と言えば「=喜望峰の発見」と連想しがちですが、それよりむしろ
欧州のほとんどの人が信じていたプトレマイオスの世界観が誤りである事を実証し、欧州とアジアの航路開拓の可能性を見いだした事の方がはるかに大きな功績です。

ディアス本人は喜望峰を発見したあのとき、そのまま航海を続けていたらインドへ到達の自信もあったものと思われますが、その栄誉は後進の航海者ヴァスコ・ダ・ガマに譲ることになります。

ガマの航海にはディアス自身も水先案内人としてヴェルデ岬まで同行しています。

ディアスは1500年ペドロ・アルヴァレス・カブラルのブラジル探検隊に参加し、ブラジルの発見に立ち会いましたが、その探検の帰路で海難事故に遭い亡くなりました。