欧州の人々が外洋に出るようになり、時代が進むにつれて航海技術は上がっていきました。

特に測量の技術は1763年にジョン・ハリスンが発明したクロノメーターによって飛躍的に向上します。

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クロノメーター

それまでの航海では緯度は正確に把握する技術があったようですが、経度の測定が出来ず大雑把な位置情報しか得られませんでしたので、以前海図に記録されていた島があったとしても、再上陸の為には周辺をくまなく探しまわるしかありませんでした。

クロノメーターの発明は経度の測定を可能にしましたので、緯度と経度の交わる点をピンポイントで知る事が出来るようになり、正確な海洋図が作成可能になったのです。

これによって「未知の海を探検」する航海から「科学的に調査する」航海に変わっていくことになりますが、その初期を担った代表的な探検家がジェームズ・クックです。

クックは1728年ヨークシャーのマートンで農民の家に生まれましたが、イギリス北西部の小さな港町ホイットビーのウォーカー社に雇われて船乗りとなり、ロンドンへの石炭運搬の仕事をしていました。

本人が望んで船乗りとなったのか?いきさつは不明ですが、クックには元々航海士としての素養があったらしく、ウォーカー社でめきめき腕を上げていき、ウォーカー社の持ち船だったフレンドシップ号という船の船長にまで昇進しています。

クックに転機が訪れたのは1755年の春です。

イギリスはフランスとの戦争(7年戦争)に突入したので海軍増強のため水兵の徴用を発令した際、クックは海軍に志願し砲術練習船イーグル号に配属されました。

船乗りとして相当の修練を積んでいたクックはたちまち上官に認められマーキュリー号という戦艦の船長に就任し、

カナダのケベックの包囲戦に従軍すると、敵の監視をかいくぐりつつ周辺水路図を作成するなど、主に測量の分野で大きく貢献しました。

クックは戦争終結後も軍に残り、測量のみならず天文学や数学など様々な分野での才能を発揮します。

大航海時代より以前から欧州では「南方大陸」の存在が言い伝えられていました。

もちろん見た者は誰もいません。

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クック第一次航海の船エンデバー号

1769年クックは自身の第一次航海で太平洋上を探索中大きな陸地を発見し、その延々と延びる海岸線に「南方大陸発見」を確信しましたが、実はそこは27年前にアベル・タスマンが発見したニュージランドである事が判明します。

ただしタスマンは食人の習慣をもつ原住民マオリ族の攻撃を受け、上陸は出来ませんでしたので、欧州人で上陸したのはクックが初めてとなりました。

マオリ族は非常に攻撃的な種族でありクック達も当然襲撃を受けましたが、クックは戦うばかりではなく時には友好的に接するなど粘り強く交渉を続けていき、やがて上陸に成功したのです。

クックはここで周辺海域の海図を作成し1770年にはオーストラリアの東海岸に活動の場を移しますが、この辺り(グレートバリアリーフ周辺)は岩礁も多く当時の船にとっては非常に危険な海域で、調査・探索には当時最先端の技術が必要でしたが、クックは見事にこの難事を片付けます。

また、オーストラリアの動物達の多様さには驚き、特に「カンガルー」を見たときは「ヨーロッパのどの動物にも似ていない」と仰天したと伝えられています。

1771年クックは様々な調査の成果を土産に喜望峰経由でイギリスに帰還しました。

<南方大陸の探索>

クックが活躍した18世紀ともなるとヨーロッパで古くから伝えられていた「南方大陸」の存在そのものを疑問視する声が挙がりはじめます。

実際に太平洋を調査航海した探検家の多くが実感として存在を疑ったのです。

しかし、それでも実在を疑わない学者連中も多く、いたるところで論争が起きていました。

世界一周に成功した探検家ブーゲンヴィルは探検家としてのプライドを訴えるかのように次のような事を言っています

「地理学とは事実に基づいた科学でなければならない。それは自分の過ちは自分の命で償うほどの冒険を経たうえで導き出した事実でなくてはならず、けっして書斎で考え出された学説を認めるべきではない」

クックも第一回目の航海を終えた感触からその存在に疑念を持ちましたが、イギリス国内ではまだその存在を信じる人は多く、国王も南方大陸が実在するのか?しないのか?その正確な回答を強く求めました。

そのためイギリス政府によって「南方大陸探索船」の派遣が決まり、クックを総司令官としてアドヴェンチャー号とレゾリューション号の2隻で総勢200名が1772年7月13日プリマスの港を出航しました。

クックはもし南方大陸が存在するとしたら前回探索したニュージーランドやオーストラリアより南だろうと予測し、喜望峰を通過するとそのまま一気に南極圏まで南下し、以後その高緯度を航海し続けました。

この航海でクックは3度南極大陸に接近し、氷の海や氷山に阻まれ航行不能な箇所まで踏み込んで行きましたが、南極大陸には到達していません。

南極大陸に到達するのはそれから100年後のジェームズ・クラーク・ロス卿ですが、そのような地理上の発見を待つまでもなく「人が住める大陸は存在しない」という事実はクックの今回の探索によってはっきりしました。

これによってヨーロッパの人々が永い間想い描いていた「黄金溢れる南方大陸」という幻想は打ち砕かれたのです。

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クックの航海ルート(1回目赤、2回目緑、3回目青)

<第三次航海とクックの最期>

1776年7月クックの3度目の航海はやはり学者達によって実在が伝えられてきた北西航路(アメリカ大陸最北部の航路で、太平洋と大西洋を結ぶ航路)の探索です。

クックは北米大陸の沿岸部を北上しアリューシャン列島からベーリング海を越え、北極海に入って航路の探索を続けました。

しかし、大きな壁のような氷が立ちはだかるばかりで、大西洋に抜ける航路などどこにもありません。

探索航海をつづけるうち、冬が近づいてきたので物資の補給と越冬のためにクックは一旦ハワイ諸島に向かい、そこでふとしたことから原住民と戦闘となりクックは戦死してしまいました。

大航海時代おけるクックの功績は計りしれません。

一般的(日本では)にはハワイの発見者として有名ですが、他にも数々の島を発見し海図を作成、以後の太平洋航海者の重要な資料となりました。

また長期航海における衛生面を改善したのもクックです。

クックは長期航海で命取りの病気「壊血病」の予防に成功しています。

壊血病はビタミンCの不足によって起る病気で、まず歯茎が腫れ、全身がむくんでだるくなり、最後は苦悶のうちに死んでいく病気です。

これまでの航海者も新鮮なオレンジやレモンなどが良いという事は経験的に知っていましたが、いかんせん保存が利く食べ物ではありません。

そのため壊血病で命を落とす船乗りは後を絶たず、クックと時代的にあまり変わらない1740年の世界周航でさえ、1995人いた乗組員のうち約半分の1000人近くが壊血病で死んでいます。

クックはこれまでの世界周航のデータを分析し、徹底的に食事に気を配りました。

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ジェームズクック

 

そして保存の利くキャベツの酢漬けを大量に船に積み込み乗務員達に食べさせたのです。

最初は皆嫌がったそうですがクックはじめ士官たちが率先して食べたのでやがて人気の食べ物となったそうです。

また麦芽汁や野菜の固形スープも携行しました。

こうした様々な工夫によってクックの艦隊は壊血病にかかる事なく長期の航海を成功させたのです。

クック以後は未知の世界を探索する冒険航海ではなく、既存の地を調査する科学的航海となります。

ポルトガルのエンリケ航海王子によって始まった大航海時代は永い時間をかけて熟成し、ジェイムズ・クックの出現によって終りを告げたのです。