<西廻りでのアジア到達>

イタリアの都市国家ジェノバの出身とされており、若いころから船乗りを志していました。

1476年にジェノバの武装商船団に乗り込んでイギリスに向かう途中ポルトガル・フランスの連合艦隊の襲撃を受け遭難し海に叩きだされてしまいますが、ポルトガルの聖ヴィセンテ岬に泳ぎつき、その地で静養の後リスボンに向かっています。

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コロンブス

コロンブスと言えば一般的には「アメリカ大陸の発見」という功績で歴史に残った人ですが、本人はその事を知ることなくこの世を去っています。

本人は「西廻りでのアジア到達」を成し遂げたと信じていましたが、実際はコロンブスが到達した島はアジアではなくカリブ海に浮かぶ島であり、探索した地域もアジアではなく現在のアメリカ大陸だったのです。

アジアに到達こそ出来なかったもののコロンブスの考え(大西洋を西に進めば必ずアジアに到達する)は理論的には間違っていませんでした。

彼が想像した以上に地球が大きかったというだけです。

コロンブスは「西廻りによるアジア到達」という発想はどのようにして思いついたのでしょう?

はっきりとした記録は残っていませんが、コロンブスが1479年頃結婚してマディラ島(大西洋上の島)に住んでいた頃の様々な経験が彼に「大西洋の向こうに、しかもそれほど距離の無いところに大陸が存在する」と確信させたと言われています。

特に、西風の強い日の翌日に海岸に流れ着く物が、今まで見た事のないような調度品や装飾品だったり、時には明らかにヨーロッパやアフリカの人種ではない人間の死体が流れついたという噂を聞いたりしていくうちに彼の頭の中で「大西洋の向こうはアジアにちがいない」という仮説が組み立てられたのでしょう。

コロンブスは島に居住していた期間に地理や航海術などを学び、研究をしましたが彼の元々の資質もあってその研究は相当なレベルにまで達したようです。

当時の知識人たちは「地球が球体である」事はすでに常識として受け入れていましたが、陸地と海の配置までははっきりしていません。

マルコポーロの東方見聞録のようなヨーロッパ人による「旅の記録」を頼りに推定された世界観では「アメリカ」自体が存在しませんので「ヨーロッパ・イスラム・アジア・アフリカ」で構成された世界しか想像は出来なかったと思われます。

コロンブスが最も影響を受けた書物はピエール・ダイイの「イマゴ・ムンディ(世界の姿)」です。

同書の主張では「ヨーロッパとアジアの大陸は東西に広大であり、ヨーロッパの西端(ポルトガル)とアジアの東端はわずかな距離の海で隔てられているだけだ」と言うものでした。

コロンブスはこの意見に強く同意し、他にも様々な資料をもとに独自に計算した結果

「地球の円周360度のうち280度は陸地で繋がっており、大西洋は残りの80度程度の距離にすぎない」

としたうえで「西廻りの航路でわずかな距離を航海することによってジパングや大ハーン国へは陸路より遥かに速く到達できる」

という独自の見解を導き出したのです。

彼はこの考え方をフィレンツェ(イタリアの都市国家)の医師であり地理学に精通したトスカネリに書簡で知らせると、トスカネリは彼の説を大いに称賛しました。

「可能どころか確実じゃないか!計り知れない栄誉と報酬を得られるのも間違いない」

このトスカネリの高評価に自信を深めたコロンブスは初めに当時の最先端海洋国家ポルトガルに資金援助の打診をしました。

しかしポルトガルはその時すでに喜望峰を経由する東廻りでのアジア到達にある程度の目途がついており、その航路も着々と開発が進んでいた為コロンブスの申し出は却下しました。

またコロンブスが要求した桁ハズレな報酬も却下の理由だったようですが、その要求とはこのようなものです。

・騎士の称号

・発見した土地の副王の地位

・発見した土地から得られる全ての利益の10%

いっけん受け入れがたいような法外な要求にも見えますが、もしコロンブスの計画が成功した場合はこの何十倍・何百倍の成果が期待できます。

しかし、その時点でのポルトガルの海洋事業は概ね順風満帆で、このようなリスクを背負う必然性は無く、訳の判らない事業に大きな投資をするより、それまで培ってきた東廻りによるアジア到達の早期達成の方が現実的かつ期待も大きかったのです。

ポルトガルに断られたコロンブスは次にスペインに話を持ちかけますが当初は却下されます。

イングランドやフランスなどにも働きかけますがやはり全て断られました。

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イザベル女王とコロンブス

ただスペインには布教に行き詰まりを感じていた宗教家を中心にコロンブスの意見に同調する者も多く、ポルトガルの独走に「待った」をかけたい国家的な事情もあって、スペイン国内ではコロンブスの提案を採用すべきであるとの機運も生まれつつありました。

また、グラナダを攻略しイスラム勢力をイベリア半島から追い出す事でレコンキスタ(国土回復運動)を完了させたタイミングもコロンブスに味方し、最終的にはイザベル女王がコロンブスの計画に賛同してくれたのです。

<出航>

紆余曲折の末1492年8月3日コロンブスの艦隊3隻(サンタマリア号・ピンタ号・ニーニャ号)はスペインのパロスを出航しました。

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サンタマリア号・ピンタ号・ニーニャ号

集まった乗組員の素性は様々で

・航海には興味津津だがほとんど知識も経験もないスペインの役人

・ジパングの黄金伝説に釣られた冒険好きの人達

・航海を条件に特赦を約束された犯罪者たち

など、心もとないメンバーが大半ではあったもののコロンブスは航海の成功を疑う事は無く自信満々でした。

このコロンブスという人物の凄さを考えた時「コロンブスの卵」の逸話に代表されるように優れた決断力と行動力がよく言われますが、実はそれだけではないリーダーとして不可欠な特性を兼ね備えているように思います。

それは良い意味で「人をその気にさせる能力」がずば抜けていたこと。

悪い言い方をすれば「集団を上手く騙せる人」だったようです。

そもそも今回の航海は未知の海に乗り出す危険な航海であり、成功すると本気で信じていた乗組員などはほんの僅かしかおらず、大半の乗組員は疑心暗鬼な状態での出航です。

しばらく航行しただけですぐに不安に苛まれてしまいました。

そこでコロンブスは

「700レグア(約3850㎞)までは全力で船を進める、その後は昼だけ航行し夜は帆を休める」

このような宣言をします。

つまり700レグアまでは海しかないのは当たり前と再認識させ覚悟を決めさせると同時に、700レグア過ぎからは陸地の発見があるはずなので、見逃さない為に昼だけの航行にすると宣言する事で、乗組員たちに700レグア過ぎに希望を植え付けたのです。

コロンブスの言葉はあくまでも希望的観測にすぎないのですが、人間は心のよりどころが有ればそれを支えに強くなれるという事をコロンブスはよく理解していたのでしょう。

しかもコロンブスは700レグア過ぎても陸地が見つからない場合に備えてさらに手を打ちます。

それは正規の航海日誌と並行して航行距離を誤魔化した航海日誌を乗組員たちに公開していたのです。

つまり、実際は800グレア航行していたとしても乗組員には「まだ700グレアも進んでいない」と思わせる事が目的でした。

「西廻りでアジア到達は可能」

との自論を心から信じていたコロンブスは航海におけるどんな苦難も物ともしないかもしれませんが、乗組員たちはそうはいきません。

「地球は丸い?そりゃ聞いた事はあるけど見たやつはいないでしょ?」

という時代です。

陸地に到達できる保証などどこにも無く、さすがに10日以上大西洋を漂い続けていると不安と不満は募るばかりで、いまにも反乱が起きそうな不穏な空気が漂い、コロンブスは鯨や鳥を見ればそれを「陸地が近いからだ」とこじつけ、海藻が流れていただけでも「近くに浜があるからだ」とこじつけ、乗組員たちの精神状態をあの手この手で保たせながらギリギリの航海を続けました。

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コロンブスの航海ルート

 

しかし乗組員たちの我慢も限界を迎え10月10日サンタマリア号で反乱の気配が濃厚になり、コロンブスは即座に対応しましたがもはや誰もコロンブスの言に耳を傾ける者はいないほど不平不満は募っていました。

ピンタ号の船長マルティン・ピンソンの仲立ちを得てなんとか反乱は収まったのですが

「あと3日航行して何も無ければ欧州に帰還する」

という条件付きで乗組員達を説得するのが精一杯でした。

そして奇しくも反乱騒ぎのあった翌日に奇跡が起きる事になります。

反乱騒ぎのあった翌日の10月11日コロンブスたちは近くに人が住む痕跡を発見しました。

明らかに人工の物と思える杖のような物が漂流していたのです。

そして夜半、遠くで火が上下に揺れているような光を発見し、その数時間後ピンタ号が大砲を発射しました。

「陸地の発見」を知らせる合図です。

スペインのパロスを出航して2カ月を超える長く辛い航海はようやく終わりを告げました。

もし反乱が3日早く起きていたら?

歴史は変わっていたかもしれません

本当にギリギリの航海だったのです

<新大陸探索と欧州凱旋帰国>

コロンブスの艦隊が到着した島はカリブ海に浮かぶハバナ諸島でした。

この島をサンサルバドール島(聖なる救世主)と名付け周辺地域の探索を開始します。

コロンブスはマルコポーロの「東方見聞録」を研究し、欧州から西廻りで航行した場合、最初に到着するのはジパング周辺であろうと予測していたので、この島を「ジパング周辺の小島のひとつ」と推理します。

現地の人達が黄金の装飾品を身につけている事もジパングが近いという期待を持たせました。

そして現地の人達から次のような情報を得ます。

「この島の南西にコルバ(現在のキューバ)という大きな島がある」

コロンブスはこのコルバこそジパングではないだろうか?

と考えました。

コルバの海岸線(現在のキューバの北岸)をしばらく探索したコロンブスですが、思い描いていた黄金の宮殿は現れませんでした。

しかしその海岸線の長さと点在する家々を見ているうちに違う推測をするようになります。

「ここはマルコポーロが記したカタイ(中国)の海岸線ではなかろうか?」

東方見聞録には大ハーン国(中国)の南部には小さな島がいたる所に点在する地域があるとの記載がありますが、カリブ海にもやはり同じような多島帯はあります。

実際、世界中どこに行っても似たような海の風景はあるものでコロンブスが東方見聞録から得た知識(イメージ)と似たような海の風景はどこの海にでもあって当たり前で、彼がその風景を見て東方見聞録から得た自らのイメージとピタリ重なったとしても何ら不思議はありません。

あとは東方見聞録通りに豊富な香辛料や金銀財宝が目の前に現れてくれれば100点満点だったのですが・・・・・

1493年1月15日 コロンブス艦隊はスペインへの帰還の途につきました。

コロンブス自身は帰還に乗り気ではありませんでしたが、周辺地域の本格的な探索の為、一旦本国に引き返し大規模な探索隊を組織する必要があったのです。

帰りの大西洋横断はほとんど問題無く順調な航海でしたがアゾレス諸島付近で嵐に遭遇したため、うっかりポルトガル領に入り込んでしまうというハプニングに見舞われました。

ポルトガルから見ればコロンブス艦隊は「スペイン不審船」です。

事情聴取のためにリスボンに出頭を命じますがコロンブスはこれを拒否します。

自分達にやましい事は無いという自信と、スペイン提督としてのプライドが強引な出頭命令を拒否させたのです。

ちなみに、このとき出頭命令を出したポルトガル側の提督はアフリカ最南端の喜望峰を発見したバーソロミュー・ディアスでした。

歴史を動かした2人の英雄が意外なきっかけで出会っていたという事実も面白いですね。

ポルトガルからの不審船嫌疑は解かれ、事情聴取ではなく「客人」として国王ジョアン2世に招かれたコロンブスは宮廷で探索の成果を報告しました。

もちろんスポンサーであるスペインのイザベル女王にも帰還報告がなされ、王都バルセロナでは英雄帰還の式典が大々的に催されました。

まさに「凱旋帰国」

苦闘の連続だったコロンブスの人生において、この頃が最高に華やかで輝かしい時だったのかもしれません。

<大航海時代の本格的な幕開け>

コロンブスのインディアス到達の報は瞬く間にヨーロッパ中に広がり人々は大興奮をもってこの功績を讃えました。

欧州各国でコロンブスの業績と彼の航海が印刷物として出回り、人々は新発見に対する情報を共有できたのですが、

そんな中、政治的に最も敏感に反応したのはポルトガルです。

コロンブス帰還後すぐにフランシスコ・デ・アルメイダを総司令官とする艦隊をインディアス探索に派遣する計画をたてましたが、それを察知したスペインはローマ教皇に新大陸の領有権を主張する手紙を提出し、新大陸で発見した土地のほとんどすべてをスペインが領有出来るよう画策し、教皇の宣言まで得てしまいます。

ローマ教皇の宣言に仰天したポルトガルのジョアン2世は自国の海軍力にものを言わせスペインに直接交渉し、境界線を定めたうえで、新たに発見された土地の領有を2国で分け合うかのような条約の締結にこぎつけます(トルデシリャス条約)

1497年にはこの領土拡大競争にイングランドも参戦します。

その後、オランダやフランスなど欧州各国が植民地獲得に向けて積極的に動き出し、いよいよ本格的に大航海時代の幕が開くことになるのでした。