19世紀プエルトリコの海賊

大航海時代プエルトリコは欧州と新大陸を結ぶ要所であったことからスペインは堅固な要塞(モーロ要塞)を作ってこの地を守った。

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モーロ要塞



16世紀から18世紀にかけてオランダやイギリスの海賊たちから何度も攻撃を受けたが、モーロ要塞は落ちることなく、プエルトリコは一貫してスペインの植民地であり続けた。
かの大海賊フランシス・ドレーク(イングランド)もこの要塞の攻略に失敗している。


そんなプエルトリコに生まれ育ったロベルト・コフレシはプエルトリコ史上最も有名な海賊である。

海賊ではあるが収穫を貧しい人たちに分け与えたという伝承が多く「プエルトリコのロビン・フット」と言われ、現代でもプエルトリコの民衆からは英雄として崇められカボロホには銅像まで建てられている。
プエルトリコには彼の名がついた町まであるほどだ。


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カボ・ロホにあるロベルト・コフレシの彫像


海辺の町で育ったコフレシは子供のころから船乗りにあこがれていた。
町を訪れた水夫たちに影響を受け船乗りを志したと言われている。

成長したコフレシは希望通り船乗りとなったが、
当時のプエルトリコは政治的にも経済的にも非常に困難な時代で
普通の船乗りとしては生活もままならず
コフレシも海賊の道に進まざるを得なかったようだ。

14人の仲間と共に小型のスクーナ船を奪って海賊団を旗揚げし、周辺地域で商船を襲撃しまくった。

ただ当時世界最強国スペインの植民地だったプエルトリコ周辺海域でスペイン船を襲うのは自殺行為
そのためコフレシはスペインの旗を掲げていない船のみを襲撃した。


この件に関してコフレシを題材にした小説や伝記の多くでは
「愛国心にあふれたコフレシはスペインの船は襲わなかった」
と彼に好意的な解釈をしているものが多いが、
プエルトリコ生まれのコフレシが傲慢な支配を続けている本国スペインに対してそれほどの愛国心があったとは考えづらいと言う意見もある。

「愛なのか?利なのか?」真実は判らない。


いずれにせよスペイン船を襲わなかった為に当局もコフレシの海賊行為は見て見ぬふりをしていたようだ。
当時のカリブ海ではよくある当局と地元海賊の癒着である。

また沿岸地域に暮らす住民たちも積極的にコフレシを保護したと言われている。

なぜこれほどまでにコフレシが民衆から支持されていたのか?
理由は、ただ「義賊だったから」と言うだけではないように思える。

19世紀ともなれば世界各地の植民地で「自治」や「独立」に対する民衆の欲求が抑えきれなくなっており、
支配や抑圧に対して力で抵抗する海賊達を英雄視する庶民感覚があったのは事実で
それはプエルトリコでも例外ではなく「反権力者=ヒーロー」という単純な構図も少なからずあったのだろう。


しかしたとえ地元住人のヒーローであっても当局から見れば犯罪者。

ドミニカやアメリカをはじめ欧州からの輸送船など襲われる側からすればコフレシは厄災以外の何物でもなく
1817年アメリカ海軍による「西インド諸島海賊掃討作戦」が展開されることになり、イギリス海軍もすぐに追随し独自の「西インド諸島戦隊」が創設された。


1822年の3月
これはコフレシの行為ではないがイギリスの商船をスペインの海賊が乗っ取り、船長のウィリアム・スミスに
板歩行の処刑をやらせ、逃げようとしたスミス船長の背中を銃で撃って殺すという事件が起こった。
(板歩行の刑=船から海に突き出した板の上を目隠しで歩かせそのまま海に落とす処刑↓下の絵)

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ハワード・パイル画「板の歩行」


このとき船に同乗していた14歳になる船長の息子が泣き叫ぶのを聞いていられなくなった海賊が
その息子の頭をつぶして殺したという残虐な行為も報告されている。


しかしこういった残酷な行為が行われようとも海賊たちはプエルトリコの領土内に上陸さえすればそこはスペイン領。
イギリスやアメリカの海軍は手を出せなくなってしまう安全地帯なのだ。


こんな理不尽な状況で常にスペイン(プエルトリコ)の海賊たちから被害を受け続けるアメリカやイギリスは、この海域NO1海賊コフレシに対して大きな恨みを持っていたのも無理はない。

アメリカ海軍はあらゆる方法でコフレシの捕獲を目論むがプエルトリコ住民の保護もあってなかなか思うようにはいかなかった。

しかし、とうとう1825年3月2日ボカ・デル・インフィエルノ沖においてアメリカ海軍は激戦の末コフレシの捕獲に成功した。
ただ当時の国際的な力関係の現実があってアメリカ合衆国に彼らを投獄する権限はなくスペインに引き渡さなければならなかった。

スペイン当局に身柄を引き渡し、厳正な処罰を与えるよう出来うる限りの圧力をかけるしか手はなかったのだ。


スペイン当局もアメリカに対するコフレシの海賊行為を見て見ぬふりをしていたとは言え、公に支援していたわけではないので、アメリカの強い要請をはねのけるほどの理由はなく同年3月29日コフレシは処刑された。


コフレシが処刑されて後、この地域では海賊行為は激減した事実を見ても彼がこの地域で大きな影響力を持っていたことがわかる。

コフレシはカリブ海賊最後の成功者の一人と見なされているだけではなく、地元住民に対する義賊的な行為が今の世では伝説として語りつがれ、英雄としてあり続けているのだ。