19世紀初め頃の中国(香港)の海賊
本名は「張保」で「仔」はあだ名というか愛称のようなもの。
貧しい漁師の子として生まれ幼少期を過ごしたが15歳のときに当時の大海賊「鄭一(チェン・イー)」に拉致され海賊の一員となった。
鄭一は容姿端麗で才気に溢れた張保のことをいたく気に入り養子にして厚遇した。
1807年鄭一が死ぬとその婦人だった石氏(鄭一嫂(チェン・イ・サオ))によってリーダに担ぎ上げられると同時に彼女と結婚することになる。
これは彼が望んだというより夫は亡くしても地位を手放す気の無かった鄭一嫂の希望によるもので、彼女は鄭一の養子である張保をリーダーに推し、彼と結婚することで実権を握ろうとしたものだった。

こうして海賊連合のリーダーとなった張保だが、もともと鄭一の海賊連合から見れば部外者だった彼は、他のリーダたちに何の忠誠心も持っておらず、そのため余計なしがらみも無かったので自分のやりたいように思い切った手法で組織を変えていくことになる。
組織自体の実権は婦人である鄭一嫂が握っており、張保はトップとしては傀儡に過ぎなかったが、彼は地位に固執することなく自らの役目に徹し、鄭一嫂も彼の考え方に共感することが多く、むしろ積極的に協力していたようだ。
張保と鄭一嫂の新リーダーコンビはいくつかの綱領を発令したが、それは非常に厳格に守られ結果的に組織を強くする一因となった。
ふだん食糧を供給してくれる村人から盗みを働いたものは極刑
女性の捕虜に乱暴したものも極刑、密通に関しては合意の上であっても双方極刑
共通の金庫や公共資金を盗んだ者も極刑
当時これらの綱領を破って刑に処せられた海賊たちを西洋人たちは何度も目撃しており
ある西洋人捕虜は「綱領は非常に厳しく施行され、違反は信じられないほど厳格に罰せられている」と証言しており、これこそが戦いにおける彼らの勇猛さと、劣勢になっても怯まない勇気の元になっていると結論付けている。
海賊団の事実上のTOPである鄭一嫂という女性は政治的に非常に優れた手腕を持っており、たまたま海で遭遇した船を拿捕するといった従来の海賊活動を、近代的な海賊ビジネスに発展させたことで知られている。
特に通行保証料のシステム(前もって金を払えば襲わないという約束)は海賊組織を維持するための労力の少ない優れた集金システムだった。
また夫である張保は人間的な魅力にあふれた人だったようで部下からは慕われ、弱いものの味方として一般庶民からも支持されていたので、この2人は理想的なリーダーコンビとして組織を鄭一が生きていたとき以上に成長させることに成功した。
ただいくら民衆から支持を受けていようが海賊は海賊
様々な方面から疎まれていたのは間違いない。
当時の清国海軍は海賊との戦いを避けてなかなか海に出なくなるほど戦力差は顕著だったため海上は海賊たちが好き放題暴れており、また物資の豊富な陸上の清軍の駐屯地はたびたび襲われたがその攻撃に対して清朝はなす術の無い状態だった。
このように清朝政府を攻撃すること自体が香港の一般庶民からすれば痛快な出来事だったため、張保の人気は上がっていき、組織は膨れ上がるばかり。
清国政府は数年にわたり香港周辺の海軍を増強したり、海賊との融和策として恩赦を発したりしたがあまり効果は無かったため、1809年とうとう禁断の政策「西洋との同盟」に踏み切った。
そして1810年、両広総督・百齢の海賊鎮圧作戦によって張保は降伏し組織は解散させられることとなるが・・・・・・
実はこの戦いが起こる数年前から鄭一嫂も張保も海賊稼業に限界を感じていたと言われており、清国政府としても巨大勢力の鄭一嫂の海賊団を仮に壊滅させたところで新たな海賊が沸いてくる事は明らかなので、むしろ戦力として使った方が得策と考えていたため、やらせとはいわないが海賊団の降伏は双方に利害が一致していたのだ。
通常、軍が海賊を降伏させた場合、極刑が普通なはずだが、張保は罰せられるどころか士官として軍に登用され1822年に没するまで武官として働いている。
彼は自分自身が貧しい漁師の家で生まれ育ったこともあって、貧乏な者に対しては食糧や金品を分け与えたり、貧しいものからの略奪を禁ずるなど義賊としての振る舞いも多く民衆から人気を博した海賊だった。
そのため現在でも香港には彼の名を使った名所も多く、有名なところでは張保仔洞という張保が財宝を隠したとされる洞窟がある。

他にも香港のいたるところで彼の名を見かけることが出来るあたり、彼が地域住民から人望を集め、香港人として当時清朝政府に抵抗した象徴とされているのがしのばれる。
なおパイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンドに登場する『選ばれし9人の“伝説の海賊”』の1人サオ・フェンは張保仔がモデルと言われる。
(管理人としては映画を見た感じサオ・フェンは張保仔より徐亞保に近い気がするが・・・)
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