ブーカンという木の網を使って豚や牛の燻製を作り、海岸を通る船に売っていた人達の事をフランス語で「ブーキャンニエ」といいましたが、これが変化して「バッカニア」と呼ばれるようになったと言われています。

このように最初はこの地域に住む人たちの総称だったのですが、そのうち彼らの売る商品を買う海賊達もバッカニアと呼ばれるようになったのです。

そもそものバッカニアはエスパニョラ島(現在のハイチ)の北西岸にあった無人の居住地に住み着いた人たちで、囚人や海賊、借金から逃げて来た人や危険思想の持ち主とされた人、逃亡した奴隷や浮浪者など、様々な事情があって本国にはいられない人達の集まりでした。

イギリス人やオランダ人、フランス人にアイルランド人、アフリカ人など人種も様々だったようです。

彼らが生きていく方法の一つとして、前述のように周辺を通る船に物を売る事もあったでしょうが、時折貧した時には海賊活動も行いました。

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トルトゥーガ島

そんな彼らは1630年頃エスパニョラ島の北西の「トルトゥーガ島」に移住しますが、この島は水と肥沃な土地に恵まれ、何より防御に適した自然の港があり、海賊達にとっては絶好の隠れ家となりました。

スペインはこれに手を焼きましたが、この島の存在を過剰に意識しすぎるあまり、火に油を注ぐような愚策を実行してしまいます。

ハンターを雇って島の野生生物絶滅を謀ったのです。

バッカニア達の食糧を断てば彼らは島を捨てるだろうという考えだったのですが、バッカニア達は島を捨てるという選択はせず、食糧確保のために、より一層海賊活動に力を入れる道を選びました。

実はバッカニアはそれまで食料に貧したときだけ闇に紛れてこっそりと小さな船を襲う程度の海賊にすぎなかったのですが、このスペインの作戦によって本格的で組織的な海賊へと変貌してしまったのです。

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17世紀に描かれたトルトゥーガ島の図

彼らは社会からはみ出した者の集まりですが、それだけに一般社会に蔓延っていた階級社会などの理不尽な差別を嫌い、

お互いの信頼関係で成り立つ社会を構築していました。

そのため仲間を裏切ったり、他人の物を盗むというような事は許されず、侵した者には厳罰が処されました。

例えば他人の私物を盗んだ者は一回目は耳を削がれ、二回目には無人島に置き去り(事実上の死罪)にされたのです。

海賊とは言えバッカニアの社会は当時の欧州諸国のような貧富の差やいわれのない差別などの無い、よほど民主的な社会が形成されていたのは皮肉な話です。

トルトゥーガ島に移り住んだバッカニアが危険因子である事はスペインも良く理解していました。

そのためスペインは1635年にトルトゥーガ島に討伐軍を派遣します。

本気になった当時世界最強の軍隊の前では寄せ集めのバッカニアなどひとたまりもなく、ほとんどの海賊が捕えられ処刑されました。

しかしそんな中、僅かですが逃げ延びたバッカニアがおり、彼らはスペインに対して激しい憎悪を抱き復讐を誓いあいます。

トルトゥーガ島の大多数の海賊が殺されたにもかかわらずバッカニアは増える一方でした。

元々が脱落者の集まりなので当時のカリブ海ではいくらでも参加者はいたのです。

気がつくと討伐隊に襲われた頃よりも膨れ上がっていました。

バッカニアの中にはスペイン人と見るや老若男女区別無く捕えるまで徹底的に追いかけまわし、たとえ相手が子供でも激しい拷問で財宝のありかを聞き出そうとした残虐な者もいました。

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バッカニアを描いた絵

このように彼らの中には極端な者もおり、そんな一部のバッカニアはスペイン人に対して残忍極まりないものだったので、スペイン領の港や都市にバッカニアが来るという情報が入ると住民は大慌てで貴重品をまとめ要塞の中や内陸の奥に逃げこみました。

このような極端な者の例としてフランシス・ロロノアエドワード・ロウが有名です。

そう言った一部の極端なバッカニアに限らず、ほとんどのバッカニアのスペインに対する憎悪は激しく、戦いでは最初から全員が命を捨てる覚悟で戦いました。

古今東西、戦闘において命を捨てて戦う者ほど強い者は無く、バッカニアVSスペインの戦いではほとんどがバッカニアの圧勝であり、スペイン人はただ彼らに恐怖して脅えるしかなかったのです。

実は現代の我々が海賊に対して持っているイメージ「勇猛果敢」「命知らず」「仲間思い」「意外に民主的」などほとんどがこのバッカニア達によって印象付けられたものなのかもしれません。

このように1630年頃から約半世紀、海賊黄金時代ともいえるバッカニアの時代が続いたのでした。